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30半ばのおっさんが悩んでいたときの話。

僕はだいぶおじさんになってから,自分らしさってなんだろうみたいな,ぬるめの悩みにどっぷり浸かってしまったことがある。

その頃僕は,昇進したり,部下ができたり,結婚したり,子どもができたり,父が死んだり,身の回りが一気に変わってしまって,それと連動して僕の視界は一気に拡がった。

あいや無理矢理拡げられた?

それで急に僕の役割が変わってしまって,それまでやれてたことがやれなくなってしまった。

正確には,それまでのやり方では,うまくいかなくなってしまったということだろうか。


こういうのをミッドライフクライシスというらしいことは,キャリアコンサルタントの勉強を始めてから知った。随分後になってからのことだ。


思い返すとこのミッドライフクライシスという中年期に起こりやすい現象が僕に与えてくれた物事の考え方や受け止め方というのは実に大きかったと思う。
だからこそメンタルバランスが崩れて,毎日が辛かったのだろうけれど。


物事を柔軟に受け止めるということが,バランス良く,ネガティブな袋小路に入り込まずに進んでいくために重要なことなのだけれど,ひとは多くの場合,無意識のうちに自分の考えに制限をつけているから,これを自然に体現するのはなかなか難しい。

対人関係のバランスが良いひとは大概これを無意識にやれてしまう(だからこれについて悩まなくてもいいかと言うと,僕はそういうひとでなかったから本当のところはわからない)。

こういうのをコミュ力が高いと言いたいところだけれど,世間一般にコミュ力というと,なんだかもう少しライトな感じの能力に聞こえる。


友だちと上手に話ができるとか,友だち作るのが上手みたいな感じだろうか。

対人関係のバランスが良いひとが特段友だちを作るのが上手なわけではなくって,自分らしさと全体への貢献をほどよく分けて考えることができるのではなかろうかと思う。

自分と相手の距離感とか,自分の考えや意見,好みと全体の方向性や総意を素早く読み取って,必要なら自分の意見を柔軟に変化させ(ここで大事なのは自分の意見を完全譲歩してという意味ではないところ),必要でないか,あるいは自身の判断軸に照らして曲げられないようなら,全体に不利益を与えないように静かにフェイドアウトする。

個と全の切り分けが上手と言い換えてもいいかもしれない。
あるいは,私とあなたの切り分けだろうか。



残念ながらおじさんの僕はその切り分けとか柔軟に形を変えることが得意ではなかったから,ミッドライフクライシスというメンタルバランスの崩れやすい時間帯は,本当にあっちにいったりこっちにいったりして,日々自分の軸は変わっていた。

歳の離れた部下たちに嫌われないように,嫌われないように考えて,でもその一方で自分の威厳というか,プライドのようなものを捨てきれず執着してしまった結果,大事なところを譲ったり,もっとよりよいアイディアへ足を向けるというような発想には至らなかった。

僕を含むだいたいのおじさんは,職場では周りのひとたちは最終的には口を閉ざして言うことを聞いてくれるので,(それがなぜなのかは考えることなく)自分の意見が最終的には正しいと思っていて,なんとかしてそこに全体を持っていきたいと思っている。

相手の意見をしっかりと聞いて,相手の意見に賛同する回数を増やしてやれば,周りに敬意を払っていることになるだろうという壮大な勘違いは,あたかも自分が柔軟で新しい意識の持ち主のように感じてしまうというさらに壮大な勘違いを連れてきてしまうのだけれど,周りのひとたちは,それがハリボテのようなもので,実際は自分たちの気持ちも意見も考え方も,あるいは自分たちの存在そのものが大事にされているというふうには感じなくって,相互の信頼関係とはほど遠い人間関係ができてしまう。




どうしたら周りから信頼を得ることができて,どうしたら自分という人間を受け入れてもらえるようになるのか。どうしたら自分は立派だと認めてもらえて,僕がここに居ても良いのだと感じることができるのか。

ここはちょっと声を大に。
断言してもいいぐらいに今の僕にとっては大事なこと。

そういう大事なことはテクニカルには解消しない。




そういうふうに心底理解できたのは,ミッドライフクライシスを抜けるためのヒントだった。

書いてしまえばものすごく簡単なことなのだけれど,そういう大事なことは人格という土台のうえにしか積み重ならない。

たとえば,見た目はもしかしたら同じように,誰かの話をしっかりと聞いて,たまに意見に同意しているだけのように見えるのかもしれない。


けれども土台をつくったうえでの行為というのは,同じようでまったく同じでない。

ハリボテでは本物と同じような効果は得られない。

影響力というのは,人格という土台をコツコツとつくったひとにだけ備わるってことなのだ。



想像してみて欲しいのだけれど,信頼できるひとってどんなひとだろうか。
立派なことを言うひとだろうか。
いつでも笑顔でいるひとだろうか。
あなたの話をじっと聞いてくれるひとだろうか。
いつも忙しそうにあっちこっち飛び回っているひとだろうか。
あなたが困ったとき,なんとなく側にいてくれるひとだろうか。


つまりそれが土台なのだ。
影響力を持つということでもある。


一両日にはいかない。
昨日今日で身につけるものではない。
だからみんなが持っているわけじゃあないのかもしれない。
少しずつ積み上げていくのは大変だから
たいてい自分との約束が守れなくて,積み上げては投げ出して,積み上げては投げ出してしまっているのかもしれない。





おじさんになると,それまで若い人たちといっしょにやれていたことが段々やれなくなってくる。そういう自分を受け入れられなくて,自分はまだ若いんだから,若い人たちとも同じところで,同じように振る舞えるし,自分もまだそうしたいと思うけれど,現実はそうでない。

その現実をしっかりと受け止めることにしたんだ。



今の自分を受け入れること。
これは本当に大事なこと。

だから僕は嫌われる勇気を持った。
自分の中に芯をつくった。
子どもの頃は,そういうことができていたような気もする。けれども大人になるに連れて,ひとりになったり,誰かに嫌われたりすることにすごく臆病になったと思う。

嫌われてもいい!というなんだか潔さそうな,それでいて自分中心的な,あるいな投げやりとも取れるフレーズの意味は,一生懸命に自分であって,一生懸命に自分のことと周りのことを調和させ,自分にも,周りにも貢献できるようにがんばったらそれでいいんだよということかとそのときの僕には感じられた。


そうして自分にとって大事なこと。
大事なことをいちばん大事にすること。
最優先にすべきことを最優先にすること。

(これは本当に難しい)


そういうことをひとつひとつ積み重ねた。
時に失敗もしてしまうし,忘れてしまうこともあったから,一直線で登ってきたとも思わないし,登り切ったとも思っていない。

僕の影響力は理想とはほど遠いし,信頼してもらえているかどうかはわからない。

けれども実のところそれ自体は目指すところではあっても,判断基準にはもうしてない。

信頼関係にあるかどうか,信頼してもらえているかどうかは,結局わからないし,わかったところで僕の行動には直接関係がないからだ。

できるのはひとつ。
僕が僕の行動指針に従って,あなたを信頼するということ。
あなたがどうあれ,僕にとってあなたが信頼すべき人間だと感じるのなら,全力で信頼するのみ。全力で貢献するのみ。必要なときに,必要な協働ができる関係を築こうと努力するのみ。

できてもできなくても
そうしようと努力しているだけで良い。

ミッドライフクライシスのときのような自分が何者だかわからなくなってしまうような違和感はもうない。

僕は僕が与えられた役割を,その責務を全うすると同時に,僕は僕の人生を僕のチカラで進んでいきたい。それがまぁ今は楽しくて仕方ない。

生きてるって感じするんだ。



あの頃うまくいかなかった僕は
自分で袋小路に突っ込んでいった。

ホラー映画の主人公たちが,行かなくてもいい屋敷にわざわざ行ってしまうのと同じだ。周りからみていたら,きっと「そこ行かない方がいいのでは?」的なところだったろう。

柔軟さとバランスを持って,ネガティブな袋小路へ続く道は選ばない。

強い土台を築くためにはどうしたらいいのか。

答えは簡単なのに,行動は難しい。
ただその行動によって結果は現れる。
その原則からは,誰一人逃れられないのだから,ひとは行動でのみ,その人生を語ることができるのかもしれない。

行動こそ積み上げられる唯一のものかもしれない。


お疲れ様。
今後ともよろしくお願いします。

サポートいただけると燃えます。サポートしすぎると燃え尽きてしまうので,ほどほどにしてください。