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泣ける程生きていて実在しなかった話 鷲田とキルケゴールと霜降り明星

(※Help!を100回ぐらい連続再生させながら書いているので、以下一切の論理性はありません)


 こんなにも向こう側の「彼らが生きている」、ただそれだけのことに泣けたライブも無ければ、こんなにも「存在しないこと」を感じたライブもまた無かった。こんなに矛盾した確信を同時に得たのは初めてのことだった。

 出てきた瞬間は、せいやさんのふくらはぎの筋肉の質感とか、テレビで見た通りのイエベブルベ肌とか、絶妙にスマホ首の粗品とか、そのままの二人の声とか、もう兎に角生きていて泣けてしまった。今年一年、ほとんど毎日私を笑かしてくれて、心配も、時には何だかもどかしい思いもそれを超えて余りある将来への期待もさせてくれる彼らが生きて笑っていて、もうそれだけで「昨日ちゃんと寝てきたのかな」とか「肋骨治ったかな」とか「今朝ご飯美味しかったかな」とか、正直今日まで彼らが生きてこれている全ての事象に関して神に感謝を捧げていたら最初の3分は過ぎていた。ちなみにどんなに頑張っても靴下は見えませんでした。

 しかしである。終わった後、謎のエネルギーに充たされた私は確かに、彼らは実在しなかったと思ったのだ。確信した。別に一瞬では無かった。体感時間としてはむしろ、この時間が終わって欲しく無いけれど、これ以上目視していたら脳が中毒症状を起こして一生夢遊病になる...!と思う絶妙な狭間だった気がする。泣ける程生きていたけど存在しなかった。この矛盾を今日私は鷲田清一とキルケゴールでもう少し丁寧に説明したい。


身体は伸びたり縮んだり


 鷲田清一は京都府の哲学者で、身体論が有名である。

 身体論とは、超簡単に言うと体は皮膚に囲まれたただの物体ではなく、像(イメージ)であるということだ。私達はもちろん自分の中の内臓がどう動いているのか見ることが出来ないし、顔に至っては直接見ることは生涯出来ない。とすれば、誰かと話している時、レントゲンの写真を見た時、我々は自分の身体を想像しているに過ぎず、私たちが認識する身体は基本的には像(イメージ)なのである。そのため、身体は皮膚を超えて伸縮する。例えば、満員電車に乗っている時、自分の身体は皮膚よりも少し小さくなったような心地がする。逆に家で一人でゴロゴロしている時、我々の腕はリモコンまで伸び、胴体はソファと一体化して、皮膚を超えて半径2メートルくらいまでは自分の身体である。デカルトの心身二元論以来、考える自分(主体)から切り離され付属品となってしまった身体に再び焦点を当てた事に功績がある。

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 今日わかったことがある。良い漫才は一つの身体である。二人のやりとりを基本形にしているが、その掛け合いを恐らく今まで何度も繰り返して、修正して、間とか拍とかニュアンスまでお互いにコントロールする様はまさしく、日々我々が行う見えない像としての身体の調整と同じであると言える。私はこれを、良い音楽を聴いた時もよく思う。

 そして霜降り明星は、何というか、イメージした身体は人間体と言うよりも、巨神兵の子供みたいな感じであった(私の体感です)。

巨神兵の子供

 今日はボケの側に座っていたのだが、ミキは出だしからお兄ちゃん亜生さん共によくを向けていて、銀シャリはお客さんに挙手で参加させていたので、その手を掴みに行っていたと捉えれば、それぞれの身体は目と手が舞台を超えて伸びていた。「野菜には絶対に濁点がつく」と言うテーマで、橋本さんがお客さんから貰う濁点のつかない野菜にそれでも巧妙に答え続けていて(ピーマン→チンジャオロースみたいな)、あるタイミングで一周回って私が「おーっ...」と小さめに声が出てしまったのだが、それさえ「もう感心されてますやん」とすぐ拾われたのでまで伸びている。うさぎさんである。


 対して霜降り明星は、終始舞台から身体は出ない。そしてその身体の境界を舞台に定めているのは、絶対に粗品さんの視線である。ずっと見ていても、およそ漫才中の意識の9分7厘は(身体の向き自体も)せいやさんに向けられていたように思う。せいやさんだって、かろうじて最初手を振ってくれるが、漫才が始まってしまえば意識の半分以上は隣の相方で、何なら最初の手の振り方だって、彼の記憶と同様こちら側のことは映像として見えているのではないかと錯覚しそうな感じで、薄い膜が引かれているみたいであった。

 粗品さんのせいやさんの方向に向けられた内向きの視線、というか彼が、霜降り明星の身体の限界(像としての皮膚)を決めているなと感じた一番の瞬間は、せいやさんが「キッショいジョブズやで」のくだりで噛んだ、何とも生らしい瞬間である。断言しよう、粗品さんは客席の誰よりも早く、一番に笑ってしまっていた。完全に脊髄を共有した一つの身体だから、どうしても後からしか客は追いつけない。だから介入する隙がなく、必然的に彼が”霜降り明星”という身体の境界なのである。


 加えて特筆すべきことは、彼らの身体は舞台が境界だからと言って、決して小さく収まる漫才ではない。むしろ、舞台に封じ込めた威力を全て爆発させていく。

 最初、TVのネタ番組と違って少し長めにせいやさんと二人で普通に横並びでやりとりをしていたので、正直ここまではそんなに声を出してまで笑っていなかったのだが(生きていることを神に感謝して涙ぐんでいた)せいやさんが動き出してから、まるでスケールが違った。例えるならば花火大会の花火が夜が更けるにつれて派手に大きくなっていくように、原子力発電のとめどない核分裂でエネルギーを起こすように、着実に爆発を連鎖させていく。彼が走り出せば血が流れる。その意味で、せいやさんは身体の心臓であり筋肉であると言える。尤も、拍動のリズムは二人の呼吸であるし、脳は二人で共有しているだろう。

 余談だが、イタリアで創始された電気けいれん療法という治療があって(倫理的には議論がある)、人間は460ボルト脳に流せば記憶が変えられる。ちなみに雷は5億〜数十億ボルトである。私の記憶がぼんやりと幻覚のようになってしまったのも、霜降り明星が何らかの高磁場を発する高エネルギーな有機体だと考えれば説明がつく。彼らの雷並みの爆破エネルギーによって生まれた磁気を、私の前頭葉が食らったことで記憶が抜け落ちたと考えられる。

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 だから、霜降り明星とは、粗品さんを皮膚(身体の境界)・せいやさんを心臓と筋肉・脳を二人で共有する巨神兵の子供のような、高エネルギーの爆発する巨大生物であったと考えられる。大事なのでもう一回貼ります。

巨神兵の子供


関係性だけが存在している


 やっぱりアテネの市民として、定義出来ないもの、言ってしまえば個人の感性だけで議論するには限界があると感じている。見えるから、触れるから、聞こえるから、それだけで実在を認めるのは何とも裏付けに欠き、足元が不安定でナンセンスだ。哲学科の授業では「ここにペンがあると思うか?」とペンを握った教授が聞けば、半分は無いと答えるらしい。

 存在に関して、実存主義で有名な人といえば、あれかこれか、実存の三段階などで知られるデンマークの哲学者、キルケゴールである。

人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。

 「その関係それ自身に関係する関係」、関係が多過ぎてまともに読んだら気が狂ってしまうので簡単に言うと、キルケゴールは引用した上記『死に至る病』の第1章に示されるように、人間(=自己)を関係そのものと捉えることから出発する。例えば、心と身体、それを総合させる精神の3つの関係が私、といった捉え方である。

 更に、キルケゴールは自己は他者との関係において存在すると言う。関係性オタクの始祖かな?また、キルケゴールにとって現実的であるのは自己存在のみで、他者の存在は可能性に過ぎず、自分が相手を信じる決断をして初めて、自己の内在的理解を超えた具体的他者の存在が、自己に対して現れると言うのだ。絶対関係性オタクですね!

 他の要素は正直不確かであっても。霜降り明星、客観的事実として、信じあってこそお互いが立ち現れる関係性は確実に、確か過ぎるほど存在していた。むしろそれこそ実存である、と言うキルケゴールの言葉の意味を裏付けるような存り方であった。TVで見るよりも全然二人の目は合っていたし、鷲田的に言えば身体が延長して一つの有機体だったし、正直生で爆笑を掻っ攫う「左中間に沼」を聞いた瞬間、オールザッツ2013年、粗品優勝の次の年にこれで最低得点で敗退したんだ...とか思って目頭が熱くなりました。こんなに不確かな他者の存在(=可能性)なのに、何年もずっと信じて刻み続けてんの?そんなの具体的他者に対する姿勢がほぼ絶対的他者(神)へと同じやつじゃん...普遍になってしまうよ...。

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結局霜降り明星は実在したのか?

 以上を踏まえると、冒頭の、泣ける程生きていたけど存在はしなかったと言う特異な結論に至ったのである。多分開始3分までは確かに二人の男性であったがしかし、少なくとも私が常日頃観念している漫才中の霜降り明星は高磁場を発する一つの巨大エネルギー有機体、あるいは観念的関係性そのものであり、残念ながらそれを実在と呼べるのか、それって人間として同じ三次元空間に存在可能なのか甚だ以て怪しいということになる。巨大なエネルギー体の爆破の衝撃波を食らって半分脳死した私の結論はこの通りだ。泣ける程熱い熱量で生きていたけど、実在したかどうかまでは一回の漫才を見ただけではわかりませんでした。逆に言うと、漫才以外の時は普通に実在しちゃうのかもしれない...ピ...ちゃん...まあピ...ちゃんは基本身内の前だけだから一生確認できんし...というか、2018年に本息の豪華客船を喰らった皆は全員完全脳死したのでは?一体何ボルトの電磁波だったか定かではないが雷10本分くらいはありそうである。

 ここまで書いていて今思うことは、そういえば粗品さんnoteの文字数聞いてなかったっけ?ということである。死にたい。本格進出あるやん。こんなに恐怖の文章あげたら表現の自由が保証されている法治国家日本でも何らかの民事裁判にかけられるのでは?スピノザ然り、思想家はいつの時代も牢獄行きと表裏一体である。今から全ての粗品をピ...ちゃんに置き換えるべきか?でも私は、万一彼が暇過ぎて見つけてしまっても、敢えてこの感動をお伝えしたいと思うのだ。私は、凝り性な彼の、趣味の延長みたいな楽しいマルチな才能・多彩さ・オールラウンダーさ・器用さよりも断然、人間的に穴だらけでもお笑いだけは命掛けてて、信頼の相方と巨神兵の子供を作り上げるようなヤバい彼が大好きだし、そこがあと15年はこの先応援、というとおこがましいが、見届けたいと思う一番の理由である勿論、かわいいところもなんか言い回しが不器用なところも仕事に誠実なところも総合的に好きですが。

 あと生の漫才は本当に楽しかったし、劇場は全席ドームアリーナS席30万円なので、私が証言した高エネルギー磁場を浴びに行きたい人は本当に是非行って、欲を言えばその電気エネルギーの存在を確かめて来て事例報告して欲しい。私もまた行きたいです.........えっ、脳死したと思ってたけど脳が電気的振動を受けて痙攣によって逆に活性化して快感を得て中毒症状が出始めている...?私文系だからこの特殊電磁場の正体についてまでは解明できないよ!!誰か理系証明して!!!HELP!!!I need somebody!!!!!!



 

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