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The Emulator - ザ・エミュレータ - #3

1.3 UCL

 UCL(Utility for Community Life)は2040年代まで存在していたビッグテック7社が設立した共同企業体が母体だった。当時の政府は、年々膨れ上がるばかりの国家予算とその歳入のほとんどを国債で賄っているという悪習から抜け出せずにいた。政府には歳出の圧縮プランと個人所得以外の税収の柱が必要だったことは火を見るよりも明らかだった。

 それとは対照的に人工国家で生まれたビッグテック各社の売上は拡大を続け、収益構造は常に洗練され、利益率は毎年上がっていった。そして、ビッグテック各社が市中銀行と裕福層向けの投資銀行の機能を完全に吸収した時点で政府はビッグテックに対する締め付けや難癖をつけて違反金をせしめるのをやめ、そしてやがて行政運営をUCLに丸投げし始めたのだった。

 アールシュはUCLに所属することになってまだ8か月目だった。アールシュの本来の籍はオプシロン社にある。アールシュは大学でコンピュータサイエンスを学び、ソフトウェア工学の博士号を取得し、大学のエミュレーション研究室へ資金提供を行っていたオプシロン社に就職して5年が経過していた。

 オプシロン社は旧ビッグテック7社の企業統合により誕生したうちの1社だ。旧ビッグテック7社は今では3社に統合されている。近いうちにこの3社も統合され、UCLを存続会社にするのではないかと噂されていた。アールシュの所属する現在のUCL(United Capitalism and Liberal)はすでに設立当初の目的であった行政サービスを運営する企業体ではなくなっていた。その規模も手掛けるサービスドメインも一企業の枠を大きく逸脱した存在となっていた。UCLは今では国家の象徴であり、事実、大統領候補者はUCLやビッグテックから支援を受けた人物が続いている。UCLは人工国家を維持・発展させるためにその機能も役割も拡大し続けている。

 アールシュはコンテナの仮設事務所でモニターの映像を見ている。作業用のヘルメットを被ったまま説明を続けるマーティンによれば、1週間前に彼らが初めて訪れた時にはすでに植物はあの状態だったという。さらにマーティンは、地盤調査のためにボーリングで開けた穴の中でも奇妙な現象を発見していた。ボーリングの穴に機材を通して地質を調査する際、途中で測定器からの反応がない部分があった。カメラを入れて確認すると真っ白に見える範囲がありその中では映像が何も映らず、十数フィートほど進めた後には通常の映像が映り始めたという。そこではその他の測量機器も一切機能せず、地質調査に支障をきたしているのだという。マーティンはそこまで言うとテーブルに置いてあったフィルムボトルに入った水を飲んで息をついた。

 マーティン・スミスはアリゾナ州立大学で地質学を学んだ後、専門職大学院で実社会に出るために測量技術を学び、卒業後にUCL傘下のソナークラフト社に就職して25年が経過していた。

 ソナークラフトでは測量エンジニアをしながらプロジェクトマネジメントを実践で習得した。面倒見の良いマーティンはプレイヤーとして専門知識を生かすだけでなくマネジメントも苦ではなかった。ここではマーティンは4人の部下とともに働いている。メサの本社には他にもマーティンの部下が5人いて、彼らは別の案件を進めている。その案件はマーティンの部下の一人がプロジェクトマネージャーとして推進している。マーティンはプロジェクトマネージャーに推薦した部下の成長を見ながら、過去の自分と重なり懐かしい気持ちを思い出すことが増えた。そして仕事にはこういった楽しみもあるのだと改めて知る年になったことを実感していた。

 マーティンはこのチームでプロジェクトを推進するために、余計な不安を取り除かなければならない責任があると考えている。先日から度重なる違和感を覚えたマーティンはここが本当に安全な地域であるのか疑問視していた。自分を含めてソナークラフト社の5名がウィルコックスのこの場所に1週間常駐しているが安全だとは言えないと考えている。割に合わない仕事は断るべきだ。マーティンはこの状況を発注元のUCLに伝え、すぐにでも決断する必要があった。メサに購入したマンションには妻と6歳になる娘と2歳の息子が暮らしている。部下たちにもそれぞれ家族や大切な人がいる。マーティンはすぐにでも状況を知り決断しなければならなかった。

 マーティンの剃り上げた側頭部から垂れる汗を目で追いながらアールシュは考えていた。植物の成長もそうだが、測量機器が全く反応しない白い空間の話は興味深かった。どういう現象が考えられるだろうか。電磁波にそういった現象をもたらす周波数帯はあっただろうか。そもそも本当に測量機器の方が反応しないのだろうか。

 アールシュはいつもの癖でマーティンの話を聞きながら考えを巡らせていたが、ふと稼働したエミュレータの残タスクが頭をよぎり、すぐに現実に引き戻されてしまう。アールシュにはやることが山積みだった。この地域一帯で奇妙な現象が起きていることがDC建設に問題になるかどうか判断するのは別の人間の仕事だ。興味をひかれながらもアールシュはそう自分に言い聞かせた。

「状況は理解したのですが、やはり、これは私の職務の範囲を超えているようですね。UCLのジェフ・ニールという者がDC建設プロジェクトの責任者になります。この件をどう扱うか彼の判断を聞いてみて下さい。マーティンさんから連絡がいくことは私からジェフに伝えておきます。ジェフの連絡先を送りますね。プロセッサは?」

「すみません、接種していないので端末に送ってもらえますか?」

 マーティンは明らかに落胆していた。明らかにこの現象を恐れているのだ。マーティンたちが持っている機材の中には当然放射能測定器も含まれている。マーティンの説明の中でも基準値以上の放射能は検出されなかったということだった。アールシュは頭を振り、後はジェフに任せようと考えるのをやめた。

 アールシュはマーティンが差し出した端末にジェフの連絡先のポインタを飛ばして、コンテナの仮設事務所を後にした。アールシュはすぐには帰らずに異変が起きているとされる周辺を30分ほど見て回り、それからメサDCに併設された研究室に戻った。

次話:1.4 ヴィシュヌプロジェクト
前話:1.2 ウィルコックス

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