自分ない

自分がない

これまで自分の中に確かに存在する信念・意思に基づいて文字を綴ってきたはずなのに、その言葉たちは等身大の範疇を大きく超え出た格好の良い言葉たちで、それを話すのは虚栄でできた自分で、結局自分が分からなくて、自信はいつまでたってもついてこなくて、会社を休んで、経済法律政治にうとくて、音楽と服が好きな、まさ現代的悟り青年(Twitterに棲息している、三無的思考のまま若さのみをいたずらに消費しぼんやり生きている人たちのこと)になり果てている。

俺は現代的悟り青年のことを嫌悪している。なぜなら彼らを原則的にうだつの上がらない生活の原因の全てを社会に置こうとし、文化を享受するセンスがちょっとだけある、その一点のみがとりえの落伍者だと思ってるから。実存主義が内包するニヒリズムにほだされた愚者に他ならないから。で、俺がそれになりつつあるから。嫌いな奴が実は俺の延長線上にあるなりたくない自分、好きな奴が実は俺の延長線上にあるなりたい自分であった、というケースが多い。人のことを、指針にして生きていることが明かされてしまったね。その人を見ているようで、自分のことしか考えてないよね。だからじゃない?俺は

俺は何がしたい?

今書いてて思ったんだけど、言葉にするの難しい。
いままでどれだけ他者の言葉を借りて生きてきたんだろう、私。

他者の言葉を借りていきて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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