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言語化の功罪-6/28/2023

やることあるのに疲れて眠いから短め!!!今日は3分プレゼンもしない!!!

Y君と遊んだよ

起床→横浜駅→ベンズクッキー→合流→トムボーイ(アジア・エスニック)→呪物展整理券126番→9階建てニトリ→古本屋(小林大悟)→渋谷パルコ→スタバ→ここまで2.5時間待たされる→呪物展→銀座へ→ヤマハ銀座店→東急プラザ銀座→台湾アイス→帰宅

かなり濃かったか。詳しくは明日の日記で書き直します。

言語化の功罪について

今日ともに遊んだYくんは普段は感情を表に出すことはなくニヒルな性格だが、その実大変涙もろいそうで、例えば映画を見たときや、聴いた歌の詞に心打たれたときには涙を簡単に流してしまうらしい。
素敵な感性だな。

で、特に「歌詞に感動する」ときってのはどういう仕組みでそうなってるのか、訪ねてみた。
「例えば自分は、のんびりとぼーっと生きてるんだけど、そんな生き方をうまく説明して肯定してくれるような歌詞があると、これでいいんだと心打たれる」とのこと。

うーん、「歌詞で自分の生き方を肯定してくれているように感じる」から嬉しいのは分かったんだけど、歌の歌詞がどうして自分の生き方を肯定しているのだと感じたのだろう。

思うに、簡単に言うと、「生き方を肯定してくれている」というより、「生き方を定義してくれている」という感覚に近いのではないだろうか。

畢竟するに、彼はぼーっと生きていたのだけど、そんな人生にどこか「これでいいのかな」という感覚を覚えており、そこに確信を得ることができなかった。しかし、とある歌の歌詞が、作詞者という赤の他人が、自分の生き方という「感覚」を「言葉」に落とし込み、説明してくれた。感覚というつかみどころのない漠然とした観念を、扱いやすい言葉で象ることで、自分の生き方を限定してくれた。ここで、彼は「自分はこの言葉を指針として生きていけばいいんだ」という具合に、他者により自分の生き方を定義してもらい、進むべき道を見出すことになる。世界が、開けたような感じがする。

こうした一連の流れが、彼に「肯定してもらえた」ような気持ちと「感動」を与えたんじゃないかな。
眠いから説明はしないんだけど、医者に「病名」を診断してもらえる感覚に近いかな。

まあ表面上は自分だけでは自身も言語化もできなかった気持ちを他社によって説明してもらうことで、自分の生き方に革新めいたものを心得ることができてさいこ~~~って感じなんだろうけど、ここには怖さもある。

まさに彼だけのものである「感覚」を、他者との意思疎通のツールとしての「言語」によって矯正されてしまい、その枠から溢れた本当に微細なニュアンスを度外視してしまいがちな点だ。

「言語化」はあくまで「限定化」「有限化」であり、物事を考えやすくするための<   >でしかないのだ。
↑この空白に当てはまるうまい言い回しを考えたけど思いつかなかったので寝る

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