やじろべえ日記　No.16 「逆行」

「こんにちは！今日は何やりますか！」
その日伏見さんはかなり元気よくやってきた。あのあたりをさまようようなつかみどころのない演奏をする人間とは思えない。

私は野良のキーボード弾きをしている人間である。学生の身分なので，放課後にこうして公園で弾いている。

今日は同じキーボード弾きの伏見さんとセッションをすることになっている。が，自分がセッションをしたい理由を話したところどうやら若者特有のスイッチを押してしまったらしく，伏見さんの方がやる気になっているというわけだ。
やる気があるのは非常にありがたいが，これは一歩間違えば空回りする予感がする。伏見さんが暴走したら止められるようにしないといけない。

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「とりあえず，昨日やった曲からやろうか。」
「やったあ，蝶の曲ですね。」

蝶の曲というのは伏見さんと私が少し前にセッションした曲で，かれこれ今日で4回目となる。
今までは迷子の子供，寄り道を楽しむ人，曇り空…ときたが今日はどうなのか…そう思って弾こうとすると

「あ，今日は私が主旋律弾いていいですか？」
おお。そう来たか。
「いいですよ。ではお願いします。」
「はーい。」

そして彼女は弾き始めた。この蝶の曲は彼女を見て思いついた曲なので彼女が弾くとそれはそれはよく似合うのだ。

「だとすれば，私はこういきますかね。」

蝶があちこち飛び交っているのであれば，飛び交う先の目的地が必要だろう。というわけで今回はトリル多めのお花畑である。彼女のふわふわした空気を壊さないよう，目立つのは最小限。

弾き終わると，伏見さんは声をかけてきた。

「やっぱりすごいなあ，市村さん。入ってくるだけで私の世界観，全く変わっちゃうんだもん。」
「もしかして邪魔しちゃいましたかね？」
「いえいえ。邪魔どころか色味もどんどん増していって，完成品に近付く感じがするんです。わたし，市村さんとセッションするとそういう瞬間に出会えるから好きなんです。」

私の演奏を好きと言ってもらえたのは初めてかもしれない。

「同じ曲をやっても日ごとに違うから飽きないし，いろいろな表情が見られて楽しいんですよ。」
「…楽しい？」
「はい。人間の表情を見るのが楽しいのと似ていません？やっぱり毎日おんなじ，平坦なものを見るよりはころころ変わった方が新鮮味があって面白いじゃないですか。ほら，人気のレストランでよくあるシェフのお任せメニューも日ごとに変わるし。」

そうか。日ごとに変わるのが面白いという発想は今までなかった。気が付かないうちに自分の演奏が変わって，それについていけないといわれることが多かったから。

「まさかそんなこと言われるとは思わなかったです。」
「むしろ市村さんの周りで今までそういう主張の人がいなかったことに驚きです。市村さんって今高校生くらいですか？」
「こう見えて大学生です…」
「大学生ならなおさらそういう価値観の人いそうですけどね。」
「あははは…伏見さんは高校生？」
「わたしですか？中学生ですよ？」

その瞬間わたしは頭を抱えた。大の大人である大学生がよりにもよって中学生に「セッションしてください。」とお願いしたということか。伏見さん，ちょっと大人っぽいからわからなかったが中学生か。一歩間違えば非合法のナンパになるところだったではないか。(今回は性別同じだし，やましいこと何もしてないから違法にはならないだろうが)

いやあ，見た目が大人っぽい若者って怖いと思いながら見ていたところ伏見さんはきょとんとしながらこちらを見た。
「そんなに意外でしたか？私の年齢。」
「意外というのもあったけど，性別とか一歩間違えてたらとんでもないことになってたなあと思って。」
「やましいことしてないんだから大丈夫ですよ。」
そうなんだけどさあ。いやほんと世の中には悪い大人もいっぱいいるから気を付けようよ…と話そうとしたとき

「市村さん，次は市村さん主旋律やってください。」
「は，はい。わかりました。」
そういわれた先ほどの曲を弾いてみた。伏見さんもあわせてくれている。

「やっぱり，市村さんの表情はとても豊かですね。」
「…え？」
「昨日ともまたガラッと変わってます。昨日は曇り空でしたが，今日は晴れています。そして寄り道で行く先を考えて楽しんでいるというより，飛んでいること，歩いていること自体を楽しんでいる感じに見えました。」

そうか。やっぱり私の演奏も変わるのか。
ここまでやってきたことを考えると少し齟齬がある。シンガーの浅井さんは私の演奏が変わる原因を「相手の演奏を受けた結果」と分析していた。だが伏見さんと一緒の時は違う場面がいくつかある。そして相手の演奏がない場合でも私の演奏は変わっている。

浅井さんの分析で答えに近付いたと思ったが，また逆戻りしてしまいそうだ。