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やじろべえ日記 No33 「海へ飛ぶ蝶」

わたしは野良のキーボード弾きである。放課後はたいてい公園でキーボードを弾いていることが多く今日もその限りだ。

講義が終わり公園へ行くともう一人のキーボード弾きが演奏していた。

「伏見さん,お疲れ様です。」
「こんにちは。お久しぶりです,市村さん。」

聞き飽きたと言われそうだが一応説明すると,市村というのは私の名前,伏見さんというのはもう一人のキーボード弾きである。

伏見さんは少し前のイベントで一緒に演奏した縁で連絡を取り合ってた。たまに勢いがすごい時があるが基本的にはおっとりしたおとなしい人である。おっとりとした性格は演奏にも表れているんだと思う。基本的にあたりを揺蕩う小舟のよう演奏をする。合わせるときは相当神経を研ぎ澄まさないといけないが,その分セッションした後は豊かな花畑を見たような達成感に浸れるので癖になっている自分がいるのだ。

「じゃあ今日は何やりましょうか?」
「あのう,市村さんがよかったらこれやりたいです。」
そういって伏見さんはおもむろに楽譜を取り出した。
「おお…これは。」
以前公開されていた映画の挿入歌である。映画は確か海を題材にした女の子の冒険譚だったような気がする。ちなみに挿入歌は確か女の子が夜の海で弱音を吐いているところに,クジラがやってくるシーンの曲だったはずだ。
「かなり幻想的な曲ですね。伏見さんによく似合いそうです。でも一緒にやっていいんですか?これは伏見さん個人のレパートリーにした方がいいのでは…?」
「自分でも練習してみたんですけど…この曲意外と重厚感が必要な曲で,連弾の方が映えるんです。」
説明されてみて納得した。確かにこれは女の子の心情変化も主題だが背景には壮大な海がある。それなりの空間の広がりと波の重なりを感じられないと描写としては弱くなる。
「たしかにそうですね…わかりました,わたしでよければやってみましょうか。」
「…はい!」

というわけでさらってみることにはしたものの,苦戦を知られたのは言わずもがなだった。私は低音パートだけ立ったので伴奏に徹する感じだったが。
「なんというか,このアルペジオとトリル,跳躍をこなしながら海のどっしりした感じ出さないといけないのか…」
高音パートも苦戦中のようだ。
「うーん,思ったより運指が…そしてこんな難しいのを軽やかに表現しないといけないのね…」

譜読みが終わることには2人ともへとへとだった。
「ああ,大変だったねこの曲…」
「そうですね…なんというか本当に限界まで頑張った気がします…市村さん,今度この曲またやりませんか?」
「そうしましょう…と言っても明日と明後日は別の約束があるのでそれ以外の日程で…」
「わかりました,来週の都合がいい日についてはまた連絡しますね…」
「お願いします…」

新しいことへの挑戦,よく企業のコマーシャルでも見るがその実は生半可なものではない。企業は時に数百人規模で一大プロジェクトをやるのだ。
こっちは2人だけでひーひー言っていることを考えると大人ってすごいなあと思ってしまうのだ。

実際我々2人は新たな挑戦の一歩目ですでに1日分の体力を使い果たしていたのだ。もっと練習しないとな。そう感じる日だった。

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