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やじろべえ日記 No.10 「憂いのち」
熱狂的なイベントの翌日,私はいつもの公園で適当にレパートリーを弾き散らかしていた。
昨日のイベントは収穫の多いイベントで個人的見解だが大成功だったと思う。ただ…心配だったのはここ1週間つるんでいたシンガー,浅井さんである。
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私は野良でキーボード弾きをしている人間だ。学校に通っている身なので放課後限定だがこうして気ままに公園でキーボードを弾いている。野良なので一人で活動するのが主体だったがここ一週間はシンガーの浅井さんとセッションする機会が増えている。
昨日のイベントにおける浅井さんの世界観の作り方。セットリストの組み方。本当に素晴らしかった。だが,本当に作りこんでいただけに,次の展開が非常に残念だった。次に出てきた人の歌が本当にえげつなかったのだ。
なんていうか,冒頭のアカペラからして存在感が大きすぎた。アカペラで聞かせたと思ったらそのあとに入った激しいドラムに前ないくらいの力強い歌声を聴かせた。一発目からコレできるか?普通?と腰抜かしてしまった。
そのあとに激しいラップを聴かせた後,ゆったりしたEDMを歌ってその場は終わった。
イベントそのものは大成功間違いなかったが浅井さんは落ち込んでいてもおかしくないだろう。作り上げた雰囲気,全部持っていかれたのだから。
それを考えるとただただ気が重い。落ち込んでいる人にかけられる言葉を,私は持っていないからだ。
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レパートリーを弾き散らかした後,やることがなかったので片付けることにした。今日はもう来ないだろうなあと思いながらぼうっと座っていたら,なんと浅井さんがやってきたのだ。
「こんにちは。」
「やあ。今日は弾いてないんだね。どうしたのそんな面食らった顔をして。」
「いやあ…今日もう来ないかと思ってたので」
「なんでそう思ったの?」
「いやあ,昨日の見たらそう思いますよ…」
「あれえ,そんなにひどい演奏だった?」
「違いますよ。…逆です。めちゃくちゃいい演奏でした。曲のつなぎ方,導入,お客さんの引き込み方,全部完璧でした。」
「もしかして君が気にしているのは次に入ってきた子かな?」
何だ分かっているじゃないか。それにしても浅井さん,なんかへらへらしているが落ち込んでいる様子がない。自分で自分の顔がムスッとしているのがわかる。
「もしかして,最初からかなわないと思ってやってました?」
「うーん,ちょっと違うかな。昨日の僕,彼の前座だったんだよ。」
うん?
「ほら,君の要望でぎりぎりの出演決定だったじゃん僕。ほぼ飛び入りみたいな感じで参加したしさ。」
ああ,なるほど。でも前座というのは?
「実は彼,この間来たばかりの新人らしかったんだよ。んで,彼の歌聴いたと思うけどすごかったでしょ?それで…その前に歌いたがる奴いなくて,ほかの出演者同士歌う順番でもめてたんだってさ。」
玄人軍団の気持ちはわからんでもないが,それは大人げなさすぎないだろうか。
「ははっ。大人げないだろう?それで飛び入り参加の僕が彼の前座をやることにしたのさ。彼はまだ新人で持ち歌が少なかったから,彼と僕の前にやるやつにどんなセトリにするかあらかじめ聴いたんだ。それでつなぎのいい感じにセトリを組んだ。」
「なるほど,それでですか…」
これでようやっと腑に落ちた。確かに浅井さんの前に歌った人たちは盛り上がるラテン系や激しいアップテンポの曲,ディスコアレンジの聴いた曲が多かった。素人界隈の単語でいえば「パリピ系」の曲である。そんな単語はないって?それはそうである。今私が作ったのだから。
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腑に落ちた理由がわからない方のために解説するとこうなる。
もし浅井さんの演奏がなかった場合,浅井さんの前に歌った人から直接あの新人さんの曲にいきなり入ることになる。そうなると多分観客はヘロヘロになってしまっていた可能性が高いのだ。なぜならあの新人含め浅井さん以外の人はほとんど縦ノリの曲ばかりだったからだ。縦ノリの曲は正直観客として乗るのにも体力がいる。シンガーと違って観客はそこまで鍛えていない。限界というものだある。
浅井さんがバラードから始め,横ノリの曲多めのセトリでやってくれたからあの新人の時の縦ノリ曲でもちゃんと盛り上がってくれたということになる。つまり浅井さんは最初からその効果を狙ってあのセトリにしていたのだ。
「それであのセトリだったんですね。納得です。」
「君気づいてたでしょ?僕のセトリが何かを意図してるって。」
「意図までは気づきませんでしたが,見せ方を心得ている感じ,熟考している感じは伝わってきました。」
なるほど,浅井さんは飛び入りだからなおさらイベントの成功のために何をしたらいいか考えて参加してたというわけだ。
「それにしても…よくそんなこと思いつきましたね。飛び入りだったら自分のセトリをこなすだけでも精いっぱいなのでは?」
「そんなこと言って。君も似たようなことしてたでしょ,一昨日。」
「…?一昨日会いましたっけ?」
「会ってないけどセッションしてたでしょ,別のキーボード弾きの子と。」
あああ。っていうか。
「見てたんですか?!」
「うん。君,あの子に合わせてわざと地味ーなフレーズばっか弾いてたでしょ。」
あれは必要だったからああ弾いてただけで別に地味ーに弾いていたわけではない。
「君が入ったとたんあの子の演奏が引き立ち始めたから何事かと思ったよ。だからあれを参考にして直前にセトリ少し変えた。」
ええええ。
「なんていうか浅井さん…」
「うん?」
「暇なんですか?」
浅井さんがずっこけた。こんなに人はきれいにずっこけられるのか。
「いやあ,そこって感激するところじゃない?『そんな…私の演奏を見て…』みたいにさ!」
「だって明日本番の人間が見に来ているなんて思いませんよ普通。」
「ああもう,ほめたのに。」
「参考にしてくれたというのはうれしいですけど,まさかそんな風に参考にされてるなんて夢にも思わなかったです。」
まあ,昨日から思っていたことが杞憂だったことがわかってほっとしたのは事実なので悪い気分ではなかった。
さてさて,今日はもう日が暮れそうだ。続きは明日にしよう。
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