やじろべえ日記 No47 「習性」
午後。昨日降った雨のため道路にまだ湿り気が残る。
私はしがないキーボード弾きの大学生である。名前はそのうちでて来る。今日は昨日話が合った通り,浅井さんと戸村さんとひたすらセッションをしていく…という話になったのだが。
時刻は午後4時15分。場所はスタジオ。そろそろ二人とも着いていいと思うのだが…
「ごめーん!市村さんおくれた!」
「だから早くしろって言っただろう。準備に時間がかかりすぎなんだよ。」
「だって身支度くらいちゃんとしたいじゃん!女の子と会うんだし!」
ちなみに今日いるメンツの中で女子は自分だけである。
「…いや別に身支度して私と会っても何も出ませんよ?」
「そうだそうだ。おくれるほうが心証悪いだろ。」
「俺が!気にするの!」
なんてことのない会話をしているがこれも緊張をほぐす何かなんだろうか。それでも昨日言われた言葉が頭をよぎる。
『変わらなければいけないのは,市村さんだと思う。』
つまり,ここで変わらなければまたセッションもろくにできない状況に戻る可能性があるのだ。それは嫌だ。
「浅井さん,戸村さん,よろしくお願いします。」
それでは,セッションスタートだ。
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「…ふー,これでそれぞれと2回ずつやってみたけど,市村さん。どう?何かつかめた?」
さっきから私は浅井さん,市村さんと交互にセッションをするという奇妙なことをやってのけている。何もつかめていないかもしれないという恐怖感が勝る。
「まだ,つかめていないです。…もう一回お願いします。」
ここで今回のセッションの目的をおさらいする。私が最近浅井さんや伏見さんとうまいことセッションができていない理由の考察を昨日した際,伏見さんと浅井さんは「自分たちがいたらないせい」という話をしていた。しかし,実のところ私が無意識のうちに他人に合わせてしまうという癖があり,おそらく日ごとに演奏が変動し安定しない理由はそれだろうということに。そこで私から「相手に合わせる隙」を奪う練習をする。これが今日のセッションのメインの目的だ。が,しかし。
「市村さん,建成との演奏聴いてたけど多分まだ建成に合わせに行っちゃってるよ。…こいつはこいつでドドンとやるから市村さんも自分は自分で平然としてればいいんだよ。…この間のアルペジオの時みたいに。」
「陸人,おまえあのアルペジオ相当根に持ってるな…」
「うるさいなー。あれは俺も予想外だったんだよー。
「…ありがとうございます。浅井さんは戸村さんと私のセッションの時何か聞いてて思いましたか?」
「陸人が自由奔放すぎるから合わせに行かなくてもいいのになあって思うときはあるかな。陸人の言う通り,市村さんほぼ無意識に合わせに行くんだね。」
「そうですね…自覚ある部分もあるんですけど…」
「試しに市村さんが意識してみたところと俺らが感じたところ上げてけばいいのでは?今の市村さんには自分を知ることが大事なわけだし。」
というわけで自分がセッション中に意識したところ,浅井さんと戸村さんにはそれぞれセッション中私が「合わせに行ってる」と感じたところを上げてみると…
「うっそ,これ市村さん無意識だったの?!」
「はい,とうかそもそも合わせてるつもりなかったです…」
「市村さん,逆にここは意識しっかりしてくれてたんだね。」
「はい,あそこは浅井さんの見せ場かなとも思ったので。」
「あれを見せ場ととらえるかあ…渋いセンスですな。」
「若々しさとかみずみずしさとは対極の人生歩んでますから。」
「そういうこと言わない!」
「市村さん,君まだ若いでしょ…」
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書き出しも終わり追加のセッションも終わり午後6時半。いい塩梅の時間だ。
「これで終わりかな。お疲れ様ー」
「お疲れ様です。」
「どう?市村さん。何かつかめた?」
「…正直何もつかめていないところがあります…」
「そうだよねえ。市村さんの『合わせに行っちゃう習性』,結構根深そうだし。」
戸村さんが先ほど3人で書きだしたメモを見ていた。
「なるほどなあ,こりゃ市村さん演奏が安定しないわけだよ。市村さん,相手の癖をなんとなくで見抜いて演奏に消化しちゃうんだもん…。」
「そうなんですね。」
「逆にソロだとどういうことになるのかな。それも知りたいかも~。」
「やめろって陸人,それにほら,もう帰る時間だ。」
「ああ,そっかあ。明日もやる?」
「お二人がよければぜひ。」
「悪い陸人,少しバイトでおくれる。」
「OK!じゃあ明日もやろうか!」
「よろしくお願いします!」
絶対に,このセッションで2人が欲し自分の姿を入手するんだ。