僕のメジャースプーンについての感想と色々

6.10に書いた記事。

登校中に電車とバス車内で読書することが習慣づいてるんだけど、今日読んだ『僕のメジャースプーン』に衝撃を受けて、到底胸の内には仕舞っておけないから、ここに自分の感想を整理しながら書くことにする。

『ぼく』はふみちゃんのことを「好きなんかじゃない」と何度か言うんだけど、この"なんか"は好きという言葉よりもっと深い感情があるってことを表してるんじゃないのかなあと思ってる。

物知りで、優しくて、同い年の子たちよりも大人っぽい考えを持っているふみちゃんに『ぼく』は憧れてるから、『ぼく』からふみちゃんへの好意は憧れを伴ったものなんだろうな〜と。


視線が合うこともなく、返事をしてくれもしなくなった(できなくなった)ふみちゃんに接することは、「本来自分が当番だったのをふみちゃんに代わってもらったせいだ」と味覚を失うくらい自分を責めていた『ぼく』にとっては本当につらいことだったと思う。

でも、毎日訪れて、声をかけて、心が傷つきながらもそれを続けた結果、きちんとふみちゃんに届いていたのが本当によかった。

あと、始まりの力を使ったと思われるピアノの発表会のシーンは、エピローグを読んで、実は『ぼく』の能力が発動したわけじゃないん気がしてきた。

「戻って、みんなの前できちんとピアノを弾こう。そうじゃないと、この先一生、いつまでも思い出して嫌な思いをするよ」と無意識に零されたセリフは完全に発動条件をクリアしてるんだけど、その前に「ぼくはふみちゃんと仲が良いことが自慢なんだよ」と言ったことで、既にふみちゃんは戻る気持ちになり初めてたんじゃないかなあ。

能力は関係なく、『ぼく』の心からの訴えがふみちゃんに届いた結果なんだと思う。

ただ、もし能力が発動してたとしてもふみちゃんは2時間経っても忘れなかったわけだから、『ぼく』の切なる気持ちが起こした奇跡ってことになって、どっちにしろ二人が愛おしくなる。

仲がいいのが自慢だって言われたことを何度も話すくらいに嬉しがったのは、ふみちゃんに特定の仲良しの友人がいなかったからだよね。みんなふみちゃんのことが好きだけど、仲が良いことを自慢に思う子はいないんじゃないかと思うから、『ぼく』のこの言葉は本当に嬉しかったんだろうなと思う。特定の仲良しがいなかったふみちゃんの一番の仲良しは『ぼく』なのが良い。

問題のシーンで終わっていた場合、イヤミス大好物な私としてはいつもだったら喜んでいたんだけど、本作は全くそうは思えなくかった。なぜなら当事者が子どもだから。私は子どもは守られるべき存在だと強く認識しているので、たとえ物語の中だとしてもつらい目には遭ってほしくない…

本当に心臓をバクバクさせながらページを捲ったんだけど、最悪の結果を免れていたので心の底から安堵した。

意志を示すようになったというふみちゃんだけど、それは多分向けられた言葉に首を振る程度の状態だと思うのね。だから、一人で行けるときちんと口で言ったって事実は、本当に感動的というか…

お互いがお互いを強く思い遣っている二人を丸ごと抱きしめたい。

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