【チェンソーマン考察】ポチタの正体は、そもそも悪魔でさえない

※このnoteは「チェンソーマン第一部の全体」「チェンソーマン第二部の第111話」のネタバレを含みます。

この記事では「ポチタの正体」を主に考察します。
また、その考察を基にして、第二部で仄めかされたある存在の正体も予測します。

記事の性質上、チェンソーマンの激しいネタバレを含みます。
チェンソーマンを第二部の111話まで見た上で閲覧されることを推奨します。





要点

この記事の要点だけまずは箇条書きで示しておきます。
・ポチタはチェンソーの悪魔ではない。チェンソーの悪魔は別にいる。
・ポチタは神の悪魔ではない。神の悪魔は既にポチタに食べられている。
・ポチタは本物の神様。そもそも悪魔でさえない。
・第二部で存在が仄めかされた「チェンソーマンの偽物」は、本物のチェンソーの悪魔
それはなぜこのような結論になるのか。話を進めていきましょう。

ポチタはチェンソーの悪魔ではない

まずは作中でも現実でも一般的見解となっている「ポチタはチェンソーの悪魔である」という説を覆します。

作中での一般的な見解の検証

とはいえ一般的見解を覆す前に、まずはその一般的見解の地盤固めをしておきましょう。
作中ではポチタはチェンソーの悪魔として扱われています。読者の大半もそのはずです。
しかし、たまにこの記事と同テーマ=ポチタの正体についての考察で「ポチタは作中でチェンソーの悪魔と呼ばれたことがない」と言われていたりもします。要するに「作中ではみんなチェンソーの悪魔ではないと知っていたが、作劇上のどんでん返しのためにそう呼ばないように描かれていた」という考察です。しかしこれは明確に誤りです。

第6話ではマキマは「デンジ君は『チェンソーの悪魔』になれる」と言っています。

第6話:デンジを「チェンソーの悪魔」と呼ぶマキマ

また、第17話で永遠の悪魔は「チェンソーを殺すのはこの私…」とも言っています。ここで永遠の悪魔が「チェンソー」とだけ呼んで、「チェンソーの悪魔」と呼んでいないのはこの記事において重要な箇所ではあるかもしれませんが、少なくともチェンソー扱いであることは確かです。

第17話:「チェンソー」と呼ぶ永遠の悪魔

他にも第53話で、アメリカの不死身兄弟の長男が「ノコギリ男」と呼び、第54話でドイツのサンタクロースに対して指示を出す男は「デンノコ悪魔」と呼んでいます。チェンソー呼びではありませんが、似たようなものと捉えられます。すなわち「作中ではみんなチェンソーの悪魔ではないと知っていたが、作劇上のどんでん返しのためにそう呼ばないように描かれていた」ということではないのです。

第53話:「ノコギリ男」と呼ぶ不死身兄弟の長男
第54話:「デンノコ悪魔」と呼ぶ指示者

やはり作中においてもポチタは「チェンソーの悪魔」というのが一般見解なのは間違いがありません

ポチタ≠チェンソーの悪魔

しかしその一般見解は誤りです。ポチタはチェンソーの悪魔ではありません。
その根拠は非常にシンプルです。理由は「チェンソーには「食べることで存在を消す」という能力はないから」です。

悪魔の能力は、悪魔の名前に関係するものです。
未来の悪魔は腹に顔を突っ込んだ者の未来が見えるし、支配の悪魔であれば自分より下だと思った者を支配できます。それ以外の特殊能力は持ち合わせていません。マキマは様々な能力を行使しているように見えますが、それはそれらの力の持ち主を支配しているからであって、マキマ本来の能力ではないでしょう。

だとすると当然、チェンソーの悪魔は、チェンソーに関係する能力のみを持つはずです。
しかしチェンソーマンは「食べた悪魔の名前の存在を消す」という規格外の能力を持ってしまっています。

第84話:明らかにチェンソーの枠組みを超えた能力

ここで候補となる説は2つあります。

①チェンソーに「食べた悪魔の名前の存在を消す」という力がある
②そもそもチェンソーマンはチェンソーの悪魔ではない

とりあえず説は出してみましたが、率直に言って①は考えにくいでしょう、
当たり前ですが、普通のチェンソー自体には「食べた悪魔の名前の存在を消す」ような力はありません。
「斬る」という効能から色々イメージを膨らませることはできますし、実際そのような考察もありますが、どれもかなり無理筋であると思います。
だとすると②の線で考えてみる方が可能性があるでしょう。

ポチタは「神」に近しい存在

では、チェンソーの悪魔でなければ一体何なのでしょうか?
ここでの暫定的な結論として「神or神の悪魔」としておきます。
上記のいずれにせよ、結局は「神」に近しいものがポチタの正体ということになります。
なぜそう結論付けるかというと、作中でポチタは何度か暗黙的に神として描かれているためです。

ポチタを神として描いているのは、自分が考えるところ3点です。

①マキマによる眷属の紹介
最も決定的であったのは第83話でのマキマの話です。
マキマは、パワーの殺害や父親を殺した過去の暴露によって完全に精神が破壊されたデンジを連れて、廊下に並べられた悪魔の名前とその正体を明かします。
まず悪魔の名前は、セラフィム、ビーム、カルガリ、ドミニオン、ヴァーチェ、パワー、プリンシ、エンジェルです。

第83話:悪魔に冠された天使の名

これらは全て、現実世界の神学における天使の階級名です。チェンソーマン世界の創作ではなく、我々の生きるこの現実のキリスト教における天使について、実際に定義されている階級の名なのです。
そして彼らについてマキマは、「この者達は皆貴方の眷属です」と紹介しています。
眷属とは従者の意です。天使が使える対象は、神です。

第83話:彼らはどういう存在だったのか

つまりここで、ポチタは天使が使える対象=神として明確に描かれているのです。

②ビームに乗ったこと
しかしまだ重大な疑問が残ります。
上記の第83話でポチタ=神と立証されたとしても「ではなぜチェンソーの悪魔と間違われるような恰好をしているのか?」という問題です。
ここで紹介しておきたい概念が、「回転する炎の剣」です。キリスト教では、神は「回転する炎の剣」という武器を持っているのです。
非常に抽象的でぱっとイメージできない名前の武器ではありますが、よく考えてみればチェンソーはこれにピッタリの性質の武器なのです。
チェンソーは当然その刃が回転します。使い方によっては火花も散るでしょう。
つまり、回転する炎の剣は、チェンソーのような見た目をしていてもおかしくはないのです。
回転する炎の剣が、人間社会にあるチェンソーにとてもよく似ているから、我々はそれをチェンソーと勘違いしているだけなのではないでしょうか。

既に明らかだという気もしますが、ここで更に以下の疑問を潰しておきたいと思います。
では、ポチタはもしかして「回転する炎の剣の悪魔」なのではないか?「回転する炎の剣の使い手=神or神の悪魔」とは言い切れないのでは?という疑問です。
第83話のマキマの話以外でも、これについて回答を与えているシーンがあります。それは第49話でレゼ・台風の悪魔と戦う際に、デンジがビームに乗ったシーンです。

第49話:神の玉座に座る者

ビームは、天使の階級で正式に言い直すならば、ケルビムという天使にあたります。そしてこのケルビムは「神の玉座」、つまり神にとっての乗り物という立ち位置なのです。
回転する炎の剣それ自体は別にケルビムに乗る資格はありません。あくまで乗り手は神だからです。
つまりビームに乗ったこのシーンは、ポチタが回転する炎の剣の使い手=神or神の悪魔だ、と示唆するシーンと言えるのです。

③DOG
ここまで来たらポチタの正体は自明ですが最後に、「ではなぜポチタは犬の形をしているのか?」という疑問について考えておきましょう。
犬とは英語でDOGです。これを逆さにするとGOD=神となります。
これ自体はあまりポチタ=神or神の悪魔説の根拠とはならないというか初見で発見しても単なる偶然に思えますが、ここまででポチタの正体が神に近いものなのではないかという疑念を持っていれば、ポチタの形態もまた伏線の一つであったことが読み取れると思います。

第1話:「神と回転する炎の剣」でもあった

以上が、ポチタが作中で神に近しいものとして描かれている箇所でした。

しかしここまででポチタ=神に「近しいもの」だとか「神or神の悪魔」だとか色々曖昧に記述してきました。
ここで一度ちゃんと可能性を列挙しておきます。考えられる限り、ポチタは以下のいずれかに該当すると思われます。

①本物の神
②神の悪魔
③神かつチェンソーの悪魔

最終的には一つに絞っていきますが、このセクションでは最後にとりあえず③の可能性を排除しておきます。

神がチェンソーの悪魔として存在するケースはない理由

「神かつチェンソーの悪魔」とはどういう状態でしょうか。これは、悪魔は本来は神話上の何らかの存在や霊体が本体としてあるのだが、この世界に現れる時には自分に近しい性質の存在の名前を持つ悪魔として顕現する、というようなシステムということになります。チェンソーマンで言えば、本体=神だが、この世界に顕現するにあたって回転する炎の剣を持った姿=チェンソーの悪魔という形式で現れたということです。このような可能性もまた考えることができるでしょう。

しかし私はこの方向性には否定的です。なぜなら、「では神の悪魔として現れる資格があるのは、誰になるのか?」という問題が発生し、これは解決できないと思うからです。
本物の神よりも神に近い性質を持つ神話上の存在はいないでしょう。だとすると、神の悪魔がいるのに、チェンソーの悪魔に、本物の神が宿るということは考えにくいと思います。そして本物の神がチェンソーの悪魔に宿ったのに、神を差し置いて神の悪魔に宿った別の存在がいるとも考えにくいでしょう。
もうひとつ出る案として「神の悪魔なんて存在しない。だからチェンソーの悪魔が代替物として選ばれ、そこに神が宿っている」という可能性も考えられるでしょう。
しかしこれも考えにくいと思います。トマトの悪魔なんていう非常にしょうもない悪魔や、天使の悪魔のような語義矛盾のような悪魔までいるのに、神の悪魔だけはいないと考える根拠が薄いと思います。
更に「神は崇拝の対象であり、恐怖があまりないから、神の悪魔は発生しない」と考えたとしても、それを言い始めたらチェンソーだって大した恐怖を集めていないと思います。トマトや天使は言わずもがなです。神は崇拝の対象ではありますが、人間的な善で割り切れる存在ではなく時に理不尽な存在でもあり、畏怖・畏敬という感情も起こさせる存在です。チェンソーと神を比較したら、流石に後者の方が恐怖の絶対量で劣るとは言い難いと思います。よって、恐怖の量で神の悪魔の発生を否定することは難しいと思います。

つまり、神の悪魔はやはり存在するだろうと考えるしかありません。そしてこの場合、ポチタがそちらではなくチェンソーの悪魔として顕現するとは考えにくい。よって、ポチタが「神かつチェンソーの悪魔」という状態の可能性は排除できます。

③の説が否定されたため、残りは①と②の一騎打ちとなります。

ポチタは神の悪魔ではない

巷では「ポチタは神の悪魔である」という考察がちらほら見られます。以下の動画は典型でしょう。

私も当初はそのように考えていましたし、今のところ考察勢の有力な見解のひとつだと思います。
しかしこのセクションではそこから更に一歩進んで、その説を否定したいと思います。ポチタは神の悪魔ではありません。

ただこの問題自体は大したことではないのでは?という考えはあり得ます。「神でも神の悪魔でもそんな違いはないんじゃないの?」という考えです。
私はこの考えに反対します。作者の藤本タツキは両者を明確に区別して物語に組み込んでいると考えます。

神の悪魔は既にポチタに食べられている

ではなぜポチタは神の悪魔ではないのでしょうか。
結論から言えば、「神の悪魔は既にポチタに食べられていると考えられるから」です。

この結論を出すには、チェンソーマン本作自体を読んでいるだけだと難しいと思います。
鍵となる情報は、『このマンガがすごい!2021』という雑誌に掲載されている、藤本タツキのインタビューにあります。

ここで藤本タツキは、「この作品には、いろいろと出てこないものがあるんですよ。たとえば"神様"という単語は作中で一度も使っていないはずなんですけど、特定のもの(や概念)を意図的に排除しています」と言っています。
単に我々の生きる現実世界とは違う世界だから、我々の現実世界にあるはずのものがなかったりする、という風にも読めます。実際、第一部後半までこの発言はそのようにしか読めないと思います。
しかし、第一部を読み切った者としてはそのような解釈は取りにくいでしょう。なんせチェンソーマンは食べた悪魔の名前の存在を消せるのです。
だとするとこの発言は「作中にもかつてあったものや概念は、チェンソーマンに食われて消えたから、作中に出てこない」という風に読むのが自然になります。
そう考えると、「神様」という言葉もかつて存在したが消えた、という風に読めます。つまり、神という概念はチェンソーマンによって消されたとしか考えられません。
神という概念を消えたということは、「神の悪魔をチェンソーマンが食べた」ということになります。

ちなみに作中に「神崎」という名字や、神を彷彿とさせるような周辺の存在(教会や神社)は存在しています。しかし、これらが概念消滅後も、以前と同様の意味付けを持っているという保証はありません。そこも含めて消滅に合わせて意味が改変された、と考えてもおかしくはないと思います。

ポチタが神の悪魔であれば、神の悪魔を食えない

こう考えた時、ポチタを神の悪魔と考えることは不可能になります。
ポチタ=神の悪魔だとすると、神の概念が消えているのであれば、ポチタは自分自身を食ったということになります。
私は当初この説を考えましたが、流石にそれは無理だという結論になりました。自分の手足ぐらいなら頑張ればいけるかもしれませんが、流石に頭と胴体を自分で食べるのは無理です。

四肢だけでも食べたらその悪魔の存在が消える、と考えるのも説得力がありません。チェンソーマンが普通に何かの悪魔と戦って、頭と胴体が残っているのに四肢だけ食べて対象の存在が消えたシーンを空想すると、流石に「え?それでいけちゃうんスか?」という感想になります。悪魔なら四肢がなくて頭と胴体だけの状態でもまだそれなりに普通に生きていられそうですし、そんな状態で相手を消せるとは思えません。

更にダメ押しで「ポチタは心臓を分離したらそこから復活できる。だから、心臓を分離して、分離された側の肉体を食べたのでは」という考えも検証しておきましょう。しかしこれもまた説得力はありません。分離元側というのは抜け殻であって、もはやポチタではありません。もしそちらもまたポチタ本体なのだということになると、第88話でチェンソーマンがマキマに撃たれて宇宙空間までいった時、心臓を分離した後に分離元側のチェンソーマンがそのあと出てきていないと辻褄が合いません。分離元は抜け殻と考えるべきでしょう。

第88話:心臓をぶん投げるチェンソーマン

そしてチェンソーマンが普通に何かの悪魔と戦って、その悪魔が仮にポチタと同じような心臓分離からの復活ができるとして、分離元の抜け殻をチェンソーマンが食べたらその悪魔の存在が消滅しそうか?分離していった側はまだ普通に生きているのに?と考えてみると、このアイデアにリアリティがないことがわかるでしょう。

だとすると、ポチタは神の悪魔とは別人だったと考えるしかありません。
ポチタは「神」あるいは「神の悪魔」のいずれかなのだから、すると消去法で、ポチタは神だったということになります。

神の悪魔が神を食べたという発想の否定

「神の悪魔が神を食べたことで、神という概念が消えたのではないか」という逆の説も考えました。神の悪魔が神を食べたことで神の能力を獲得し、神という概念も消えた云々…というような発想です。
ですが、こちらはあり得ないと考えています。
これは例えば、ハンバーガーという存在を消すために、ハンバーガーの悪魔を食べずとも、ハンバーガーを食べればハンバーガーの存在を消してしまえる可能性は残されている、というようなものです。
マキマからは「悪魔を食べることで、その名前の存在を消せる」というルールしか示されていませんが、まあ神だし何でもありでは…?というのもわからないではありません。

しかしその可能性は第86話で否定されたと考えられます。
第86話で、ポチタはコベニが持ってきたハンバーガーを明確に食べています。しかしそのあと、ハンバーガーの存在が消えるような描写はありません。

第86話:ハンバーガーを食べてえらくご満悦のチェンソーマン

もし、悪魔を食べずとも、悪魔の名前の由来となった本体を食べることよっても概念を消せるのであれば、ハンバーガーを食べた時点でハンバーガーの存在は消えねばなりません。
しかしそうなってはいない。つまり、やはり悪魔を食べなければその存在は消せないのです。
そう考えると、やはり神を消すには神の悪魔を食べるしかなく、神を食べても神の存在を消すことはできないと考えるべきでしょう。

やはり食べられたのは神の悪魔であり、それが食べられた以上、ポチタの正体は神の悪魔ではなく本物の神の方なのです。

ポチタが神だとすると…

ポチタの正体について、チェンソーの悪魔も神の悪魔も否定されました。
消去法でその正体は神という結論になりました。つまりそもそも悪魔でさえなかった、ということになります。

しかしポチタを神だと考えると、また新たな問題が生じるのです。

ここまでの議論では、割と客観的な根拠をあげてきたつもりではあります。しかしここから先の議論は、作中に有力な証拠を見つけることが難しく、かなり推測も混じることになります。

ポチタはなぜ消えなかったのか?

神の悪魔が食べられたなら、神の概念も消えます。それを理由としてチェンソーマン世界では「神様」という言葉が使われていないのだと思われます。
しかし、であればなぜ神様本人であるポチタは消えなかったんでしょうか?

ここで重要になるのが武器人間の存在です。武器人間とは、レゼやクァンシのような、武器の悪魔と一体化しデンジと同じように変身可能な者たちです。
武器人間というのはここでの仮称です。第87話でマキマが言うように、彼らを呼称した名前はポチタに食べられてしまい、作中では正式な名を持ちません。にもかかわらず、未だに存在しているのです。

第87話:食べられても消えなかった存在

つまり、ポチタが食べても、名前や概念は消せるが、存在自体は消せないものもあるということです。

作中から見つけられる根拠が乏しく、メタ的な読みに走ってしまうのですが、私はこの武器人間たちの名前がない理由は、上記の事実を読者に示すためというのがひとつはあったと考えています。
チェンソーマン第一部の話の都合では、別に武器人間たちに何らかの名前がついていても特に問題はなかったはずです。彼らに名前がついていないという設定は特に有効に活かされたことがありません。
それに別に「歴史的に前例がないから名前が付いていない」という、序盤のマキマの嘘をそのまんま採用してもいいわけです。わざわざ「チェンソーマンに食べられたから」という理由である必然性がありません。
ではなぜわざわざ「チェンソーマンに食べられたから」という理由が出てきたのか。そしてなぜわざわざそれが明かされたのか。それは「そういう例外もある」ということを示しておきたかったからではないかと考えています。
そしてその例外に、ポチタもまた当てはまるとここでは考えたいと思います。

ここで検証すべきことは2点あると思います。
ひとつは、第87話でマキマが「貴方に食べられた数々の名の中で唯一存在が許された者達です」と言っていたことの真偽です。

第87話:唯一

「唯一存在が許された」というのは、言い換えれば「他にそんな状態になった者はいない」ということです。つまり、ポチタも消えてなければおかしい、ということです。ポチタが消えていない理由を探るためには、このマキマの発言に誤りがあった事を示す必要があるでしょう。

もうひとつは、食べられても消えない存在の法則です。この法則を見極め、ポチタがこれに当てはまらなければなりません。

マキマは神(の概念)の消滅を把握できていたのか?

まずはマキマの「唯一」発言の真偽を探りましょう。
マキマは武器人間以外に、食べられたのに存在が消えなかった者を把握することに失敗している根拠はあるのか?と言うと、あります。
それはマキマがポチタをあくまで「チェンソーの悪魔」や「チェンソーマン」と呼び続けているという点に求められます。

マキマはやはりポチタが神だとわかっています。少なくともそうでなければ第83話での眷属や異なる信仰云々という発言は出てこないからです。
しかし、神だとわかっているにもかかわらず、マキマはポチタを決して「神」とは呼ぶことはありませんでした。なぜかずっとチェンソー呼びです。

別にそれがポチタの愛称というかポピュラーな呼び方だから、とも解釈できます。この解釈を否定できる材料はありません。

ただもうひとつ別の説も浮かびます。それは「マキマが、神という名を思い出せなかったから」という解釈です。
マキマが岸辺にチェンソーマンの正体を明かした第84話で「私の物事を掌握する力を以てしても消えてしまった名前を思い出せなくなってきました」と言っています。

第84話:マキマでさえ思い出せない存在

つまりマキマには忘れた言葉がいくつかは実際にあるのです。
この事実を考慮すると、マキマは神の存在は把握していても名前は思い出せないという状態の可能性はあります。
そしてその神には既にチェンソーマンという「別名」があったのだとすると、マキマは「神」という名前が消えたとは考えなかったという可能性も出てきます。「存在はあるのに、名前がない」のであればその矛盾から「消えたのでは?」と勘づくこともできますが、別名があてがわれては疑う契機もありません。
そしてその場合、マキマは「神も一度食べられたけどまだ存在している」とは考えない可能性があります。
更に言えば、マキマの性格上、もし彼女が「神」という名を覚えているのであれば、嬉々としてそれを使うのではないか?と予測します。
彼女はチェンソーマンのファンです。もしチェンソーの悪魔やチェンソーマンといった呼び名が本当の名前ではなく、実際には「神」という名なのだとすると、自分こそが真のファンであるとばかりにみんなが使わない方の真の名前を使っても良いという気がします。もし「神」の名を覚えていたのなら、「貴方達はチェンソーの悪魔やチェンソーマンなどといったふざけた名前で呼んでいますが、彼の本当の名は…」程度のことは自己顕示のために言いそうです。

ここまでの議論で「神の名前は思い出せないのに、神の存在はわかってるってどういうこと?」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、これは武器人間の状態を考えると別に矛盾ではありません。
彼らは今や名前もなければその概念もありませんが、目の前に存在していたら彼らを認識することはできますし、彼らについて考えることもできはするのです。それはマキマだけではなく、作中でデンジのチェンソーマン姿を見た人間の皆がそうです。だからマキマが過去に何らかの方法や事件によって「どうもこの世界にはスーパーな存在がいるらしい?」と気が付き、それがかつて「神」とされた存在であったことは思い出せずとも、自分の考えや間接的な証拠からほとんど同等の発想に到達したとしてもおかしくはないと思います。

ここら辺は確証がなさすぎて「可能性がある」ばかりですが、「マキマがチェンソーマンを決して神とは呼ばない」事に単なる愛称以外の理由を求めると、自分はこう推測するしかありませんでした。

議論が迂遠になってきたのでまとめると、「マキマは神という概念が消えた事を把握できてない可能性が、チェンソーマンを決して「神」とは呼ばないことから推察できる。それゆえに武器人間だけが食べられても消えなかった唯一の存在と勘違いしたかもしれない」ということです。

消えない存在の法則

上記のマキマの議論を真に受けて、「武器人間以外にも食べられても存在が消えなかった者はあり得る」と仮定した上で、「ではその例外の理由は?」という議論に進みましょう。

まず率直に言うと、例外の法則の確証はありません。
武器人間が、その総称存在が食べられても消えなかった理由は作中では明確に明かされていません。マキマも「なぜか彼らの存在は消えなかった」と言っていて、見当がついていません。
なのでここから先はかなり憶測混じりですが、2方向から攻めてみたいと思います。

①マキマが「消えた存在」として実際に挙げた者たち
②ポチタがマキマを食べなかった理由および支配と武器人間の共通点

①マキマが「消えた存在」として実際に挙げた者たち

まずは「①マキマが「消えた存在」として実際に挙げた者たち」についてです。彼らの属性を抽象化し、もしそれにポチタが当てはまってしまえば、ポチタは消えていなければおかしいという事になります。

消えた存在をまとめると、2種類に大別できると思います。
ひとつは人間が作り出した非常に個別具体的な存在です。ナチスや第二次世界大戦等です。

第84話:非常に個別具体的なものたち

もうひとつは自然・生物学的現象です。第六感や子供の精神を壊す星の光、死以外の4つの結末です。

第84話:生物学的・自然現象?(福音書説等もある)

粗唖のような現実に存在しないものは上記のいずれに分類できるのかは不明で、これらの正体が発覚すれば上記の整理は無効化される可能性はありますが。
分類不明のものは無視する(しかない)として、上記2種類は消せることがわかります。
実は「子供の精神を壊す星の光」「死以外の4つの結末」はキリスト教的な概念であるという考察もあり、自分もその可能性はあると考えています。例えば後者だと、マタイによる福音書・マルコによる福音書…といった4つの福音書が実際に現実にあるのですが、これらが死以外の結末を記しています。ただこのように考えると、これらはナチスや第二次世界大戦といった「人間が作り出した非常に個別具体的な存在」というカテゴリに属することになり、消せる対象が狭まることこそあれど広がることはないと考えています。
では、神はこれらに当てはまるでしょうか。当てはまりません。なのでここでの基準だけを見れば、神は消せる対象とは即座には言えなくなります。

②ポチタがマキマを食べなかった理由および支配と武器人間の共通点

次に「②ポチタがマキマを食べなかった理由および支配と武器人間の共通点」です。
第89話でマキマは「それなのになぜ私を食べないのですか?」と、どれだけ殺されても自分を食べないチェンソーマンに疑問を抱いています。

第89話:なぜ食べないのか

これについては正直「単なる気まぐれ」という説もあり得ます。これを否定できる材料はありません。

ただ「何か理由がある」という前提で考えてみましょう。ここでは2つの説が思い浮かびます。

①支配は人間にとって害悪だけではないから
②食べても意味がないから

「①支配は人間にとって害悪だけではないから」は単純ですが、ポチタの原理に一見根差してはいます。
マキマが「消えた存在」としてあげていたのは、中身が不明なものを除けば、どれも人間にとっては害のありそうなものばかりです。
すると、ポチタは人間にとって害のある存在を食べているのではないかという考えに至ります。
では支配はその基準に当てはまるのかというと微妙です。実際マキマはそんなに人間社会に危害を加えてもいませんし、支配がなければ人間は統率が取れず必要悪な事も多いからです。
なのでこれが理由だとも考えられます。
ただポチタはデンジ以外の人間をそこまで助けたいとは思っていない描写も多いです。
チェンソーマンモードのポチタは普通にハンバーガーショップ店員を何人も殺してますし、コベニを助けに来たデビルハンターも殺しています。彼らに大した罪はないにもかかわらずです。

第85話:そしてハンバー…!

そんなポチタが人間社会に危害を加えることを基準に悪魔を食っている、というのはやってることがチグハグに感じます。

そこで私は「②食べても意味がないから」という説を考えます。
つまり、支配は、武器人間と同じく、食べても概念や名前を消すことはできても、存在を消すことはできないということです。
だとするとここで検討の材料が出来ます。
武器人間たちと支配の悪魔、彼らの共通点に、ポチタが食べても消せない対象の法則が隠れていることになります。
これは確証がないのでどうしても自分の希望的観測になりがちですが、自分は「人間の社会・精神的な活動において必然性があるか」だと考えています。

まず、支配というのは人間が群れで生きている限り必ず生じます。
次に、武器人間ですが、これは要するに「人間と悪魔の融合」です。これは人間と悪魔がいてそこに何らかの交流がある限りはやはり不可避ではないかと考えます。
逆に、ナチスや第二次世界大戦といった、個別具体的な事象は必然ではありません。政党や戦争は必然かもしれませんが、その中で具体的な存在はそれぞれ別の具体的な存在であっても良い以上、必然とは言えません。
また、第六感や子供の精神を壊す星等は、人間の生物学的な側面や人間の外部の自然現象であり、「人間の社会・精神的な活動」における必然性はやはりありません。

こう考えると当然湧いてくる疑問は、「なんで人間のそんな部分に左右されるのか?」という点です。これについては多少の根拠を示せます。
悪魔たちは人間の社会・精神的な部分にかなり依存した存在です。
それはすべての悪魔は「人間たちが勝手に作った名前」に基づいてその存在が規定され、人間の恐怖心によってその強さが決まる、というシステムから明らかです。名前は人間の社会的な取り決めであり、恐怖は精神が作るモノです。悪魔は根本的なところで人間に規定された存在なのです。
ポチタは、悪魔を食べるという行為を経由しなければ、存在を消せません。その食べる対象が、人間の社会・精神に強く影響されています。だとすると、食べて消すという行為が、人間の社会・精神から何らかの拘束を受けても変ではないと思います。

「②食べても意味がないから」の検討から導き出された「人間の社会・精神的な活動において必然性がある存在は、食べても名前や概念は消せても、存在を消し切れない」という法則が妥当であるなら、神とはまさに人間にのそのような活動において必然性のある存在なのだから、やはり食べても消えないだろう、と考えられます。これを理由として、ポチタは消えなかったのではないかと推測します。

ここらへんはもう直接的な根拠がない部分でほとんど妄想の域だと自分でも感じますが、今ある手持ちの材料のみで考えるなら自分はこうなります。

第二部の偽物の正体とここからの展開

過去の情報整理と考察だけというのもなんなので、ここから先の予測も少しだけしてみようと思います。

第二部では111話のラストで、チェンソーマンに似たシルエットの存在が仄めかされました。

第111話:チェンソーマン?

デンジはその間寝ていたように読めるので、偽チェンソーマンということになるでしょう。

しかしここまでの考察の通り、そもそもポチタはチェンソーの悪魔ではない可能性が高いです。
つまり、本物のチェンソーの悪魔は別にいることになります。
だとすると、あの偽チェンソーマンこそが、本物のチェンソーの悪魔、または魔人かその心臓を持つ者という可能性も十分あり得ると思います。

ただ別の考察として、「チェンソーマンの悪魔」ではないかという考えがあり、これは面白い見方だと思いました。
チェンソーマンがあまりにも有名になったために、チェンソーマンの名前が恐れられ、チェンソーマンという新たな概念となりその悪魔が現れた、ということでしょう。

どっちなんだろう?と思ったのですが、自分としては「どっちも出て来ればカオスで面白いな」と思います。
つまりこのような流れです。
・チェンソーマンの偽物が実際に登場する
・その偽物が「チェンソーマンの悪魔」と判明する
・読者も「なんだ、やっぱりそうか」と安堵?する
・すると第二の偽物が現れ、それこそが本物のチェンソーの悪魔
・ポチタの正体に当たりが付いてない読者が「どういうこと!?こいつ誰だよ!?」と寝耳に水で驚く
・デンジ、チェンソーマンの悪魔、本物のチェンソーの悪魔が三つ巴で戦う

ポチタの正体という核心にも迫れるし、チェンソーマンらしいカオスさも出ると思うし、個人的にはこの展開に期待します。


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