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第4章 おばちゃん

幼稚園に通園していた頃、春の親子遠足でイチゴ狩りがあった。仕事をしていた母の代わりに義伯母がお弁当を作り、私達姉妹の手を引いて遠足に参加してくれた。今でも、所々の情景が思い出せるのは、よほど楽しかった、ということだろうか。
ハッキリと覚えているのは、姉がイチゴなんかそっちのけでバッタ捕りに熱中していたり、先生が「持って帰りませんか」といただいたイチゴに、ラッキーと興味津々だった私の心情だとか、そういう類のことである。

幼稚園の送り迎えは祖母と義伯母だった。それに加え前述したが私には精神疾患があり、よく体調不良に陥っていた。園からの連絡を受けて迎えに来てくれるのも、義伯母の“おばちゃん”である。

この人は実に昔気質の情に厚い人で、現代人には想像もつかないほど、世話焼きで社交的な人であった。何か悪戯をしてもピシャッと注意し、すぐに気持ちを切り替えまた世話を焼く。自分の為に時間を割いているところを、私はほとんど記憶していない。ほぼ全ての時間を、家族や私達姉妹の為に費やしてくれた。料理の腕も抜群で、後年“専業主婦”の義伯母を勿体ないと嘆いた母が、事あるごとに「料理屋をやってみないか」と声をかけたほどである。

幼稚園を卒園した後小学校に入学しても、遠足のお弁当を作ってくれたのはやはり義伯母だった。遠足前日に遠足に持参するお菓子の買いものに付き添ってくれたのも義伯母。風邪を拗らせて学校を休むことはしょっちゅうの私が、授業中熱を出し早退するのもまたしょっちゅう。学校帰りの道の途中で気分が悪くなり、そんな時に迎えに来てくれたのも、もちろん“おばちゃん”だ。

学校の一大行事である、“運動会”。教師をしていた両親は其々の勤め先の運動会と私達が通う小学校のそれとたいてい日にちが被る為、通っていた6年間の内、両親が参加したことはほぼ無い。そんな両親に代わり、応援をしに来てくれたのは、祖母、伯父、義伯母だった。私は毎年秋のこの情景を今も鮮明に覚えている。               

“おばちゃん”はお弁当を朝早くから作り、お昼ごはん直前には、学年別に集まっている私達姉妹を手分けして見つけ出し、みんなで三段重ねのお弁当を広げる。当時、姉はよく運動ができリレーではトップ争いの常連であった。姉と対照的に私はいつも“べべたんこ”。しかし、当の私は、一度もそれについて叱られたことは無い。むしろ「最後まで走れて頑張ったね」と何故か褒められる。勉強についてもそうだ。日常生活で心身共に不安定だった私は学校を欠席することも多く、運動どころか勉強の成績も悪くなりがちであった。そんな私であったが、兵役経験のある祖父はいつもこう言った。

「勉強なんてできんでもええ。そんなことより丈夫な体が大事や」      

勉強も運動も遅れがちな私が、自己肯定感が低くなり始めるのにそんなに時間はかからなかったが、すんでのところでそれを支えてくれたのは、一重に、日常生活の全てにおいてサポートしてくれた“おばちゃん”はじめ、祖父母と伯父のお蔭だ。私を育ててくれた両親にはもちろん感謝しているが、義伯母はじめ、祖父母と伯父には、感謝してもし足りないのである。

30歳を少し過ぎた頃、私もようやく生涯の伴侶を見つけ、結婚した。披露宴では一般的には両親に花束を贈るものだと思う。しかし私は伯父と義伯母に花束と記念品を渡す場を設け、感謝の気持ちを言葉で伝えたことは、記憶に新しい。その時両親以上に号泣していたのは、“おじちゃん”と“おばちゃん”であったことは言うまでも無い。

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【写真】姉と私。(右が筆者)


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