レポート◆Ⅱ◆日比谷カタン
2番手は、日比谷カタンさん。
この日は濃茶、少し長めのウィッグに白いシャツ、テーラードジャケットを合わせ、更に襟元には臙脂のビロードリボン。
と、イヴェントを意識したヴィジュアルでのご登場。(ライヴ中のお写真で無くて、ごめんなさい・・・)
SEに重ねて即興的にギターを爪弾くオープニングはいつも通り。そこからの“いびつな月のはからい”で軽やかに始まります。
「今日はギムナジウム縛りなので、『全員正装で』と告知してしまったのに。主催なのにアウェイ」と、泡沫と消えたドレスコードに言及し、楽曲解説からの“ベビースキンの世界紀行”へ。
インセストな関係にある、非実在双生児のアダルトブログを歌った(コミカライズでもノベライズでもなくて、こういうとき、何て言うんだろう・・・)この曲は渋谷系を標榜して作られており、多分にシニカル、かつIT用語を巧みに取り込んだ、オサレな仕上がりになっているのですが、“少年”というキイワードだけではなくこの後のコラボレーションで披露される演目への布石にもなっています。
続いては、新曲“東の鉛筆、西の消しゴム”。東西冷戦期のドイツを舞台にした歌で、この日までに大幅な加筆修正を行われた、ということです。
ちなみに“鉛筆×消しゴム”というのは、BL(ボーイズラヴ)の基礎学習としてわりとメジャーなお題でして、この二者の関係にどれだけの妄想を抱けるか、というのが登竜門になるようです。
という、一触即発の米ソを表すジョークを卵に生まれ、ベルリンの壁によって分かたれてしまったクラスメイトに書かれた手紙、という体裁を取るこの曲は、ギムナジウムものというよりも(冷戦よりも遡りますが)ナチス(はじめ第二次大戦を舞台にした)作品群への憧憬を与えられました。
(ナチスSA VS カトリック×寄宿舎、という垂涎ものの『神の棘』という小説がありましてね・・・!と、語りたくなるのですが、そこはぐっとこらえて)
このとき、『小鳥の巣』(萩尾望都さまの代表作『ポーの一族』の“ギムナジウム篇”の代名詞として挙げられる一篇)の登場人物にしてこのエピソードの主人公、キリアン・ブルンスウィッグと教師のやりとりが詞のモチーフとして取り上げられている、ということが語られます。教師にその長髪を「切りなさい」と指摘され、「切ります、国境がなくなったら!」と切り返すキリアンが、カタンさんの推し、ということで・・・。
「なんかステキ!」という衝動からのスタートで、このディテールが鋭く美しい棘になっている、望都さまの偉大なところ、として挙げられる部分なのですが、そのスタンスはそのままカタンさんの創作にも活きている気がします。神は細部に宿る。
そして、熊坂出監督の短篇『じかんのじかん』挿入歌としてつくられた“Stereoboy VS Stereotype”、沈みゆく世界でのボーイ・ミーツ・ガール“終末のひととき”、そして新しめの “Post Position Proxy”と、今冬発売するアルバムの収録曲3曲を、楽曲解説を挟みつつ披露し終了。
日比谷カタンさんといえば千変万化の声、更に比類なきテクニック…そういった点が衝撃的で、真っ先に挙げられると思うのですが、こういったワンテーマのイヴェントには確実にそれに寄せた内容で軸を崩さぬまま、万華鏡のように切り替わる世界を顕すのも大きな特徴だと思います。
そして、その博覧強記やシニシズム、粋を纏いながらもどこまでも脱線してゆく(そしていつの間にか始発点に戻っている)環状線のようなMC、ミーハーさからくる批評性などもカタンさんの大きな要素ですが、こうして“少年”縛り(字面があやしいな・・・)として並べられた曲を見ると、ふだんの諧謔からは気付けなかった、純粋な“熱さ”があることに気付かされます。少年(から、思春期末期の青年くらいかな)を主人公に据えた曲が並んでみると、俯瞰しながらも、時に目線を同じくして、鼓舞させる瞬間がある。そしてそのことばの説得力たるや。
白シャツはズボンにインしてないし、長めの髪も無造作風にセットされているし、どっからどう見ても不良学生の日比谷カタンさんは、実はこのイヴェントに於ける、厳しくも頼れる風紀委員だったのです。
セットリスト
1.いびつな月のはからい
2.ベビースキンの世界紀行
3.東の鉛筆、西の消しゴム(新曲)
4.Stereoboy VS Stereotype
5.終末のひととき
6.Post Position Proxy
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