どうして、『ギムナジウム』なの?

 そもそも、なんでいま『ギムナジウム』がテーマなの?

なんて、誰にも訊かれてはいませんが…。

 平素より、マンガを読むのに忙しくありたい。酔いが深くなるとマンガ(と乃木坂46)の話しかしなくなる、即ちその本能はマンガとともにあり…というのがヤマダナナという人間で、とにかく、眼に映る耳に届く舌に触れる何かしらを、マンガに結び付けることばっかり考えて生きています(言い過ぎた)。

 で、今回わりと大きなきっかけになったのが、夏に刊行された『萩尾望都・限定スペシャルカバー』での主要作品ラインナップ。これを機に持っていなかった作品を読んだり、やたら読み返したりする機会に恵まれました。

 萩尾先生の作品に触れるにつけ思うのは、その舞台から構図、展開、台詞すべてがその紙面のなかで完結する“完全無欠の物語”を享受するしあわせ。

 勿論キャラクターのバックボーン等を妄想してニヨニヨしたりすることもできますが、その一作のなかで区切られた時間(季節)に対しては、わたしたちは余すところない情報を与えられているのです。

 はっきり言ってしまうとな、ツッコミどころがほとんどないんですよ。

 突飛な場面があったとしても、読み手に委ねるような結末が用意されているとしても、それがすべて物語のなかの“必然”として機能する。仄かだけれども確かな説得力が宿っているのです。

 そんなことを再確認しながら『ゴールデン・ライラック』に涙していた頃。

 その一方で、今年はなんだか“閉じた空間における少年の共同生活から浮かぶ関係性と葛藤、成長”みたいなモティーフが、しばしば目に入ってくることが多かったのです。

 顕著だったのが映画で、新作でも『バレエ・ボーイズ』(バレエ・スクールに通う3人の少年にフォーカスしたドキュメンタリー)や『ボーイ・ソプラノ』(ひょんなきっかけでアメリカの名門合唱団に入団し、そこで才能を育んでゆく少年の寄宿舎生活を描く)。少し見方を変えると『合葬』(杉浦日向子原作。幕末、彰義隊に名を連ねた幼馴染三人の顛末を、幻想的に物語る)にもそんな側面があるかも。(ぜんぶ素晴らしかったです)

 そういった作品群を観るなかで、たまたま話題に上ったのが、『萩尾望都作品のミクストメディアについて』でした。

 萩尾作品はこれまで、舞台を始めラジオドラマ、アニメ、TVドラマ、と様々に取り上げられてはきましたが、どうも恵まれていない気がする…。わたし自身、勿論すべてを網羅したわけではないので、情報だけで「これは観たい(聴きたい!)」と思っているものもまだまだあるし、ドラマ『イグアナの娘』は翻訳がすごく巧みだったと思っているのですが、あの見開きいっぱいに広がる、馥郁たる物語の薫りは、メディアを移したとたんに褪せてしまっている印象が否めないのです。

 こと、あの強固な物語を彩る、揺らぎと頑なさを抱いた少年たちの輪郭は、やはり異次元で再現するには様々なハードルが生じてしまう(だって正直、実体化が観たいわけではないんですもの…)。

 マンガとして完成しているわけだから、それで十分なんだし、そこを憂う必要はないんだけれども…………せっかくだから、巧みな翻訳をもっと味わってみたいよなあ。

 なんて話をしていたところで、ゆっくりと脳裏に立ちあがる姿がありました。それが、バンド『グレンスミス』(理由については、次回)。

ともかく「ナカナカ観られないグレンスミスのライヴを観たい!」という望みと、「マンガのイメージライヴを企画してみたい!」というふたつの望みの星を内包し、結び合わせることのできる空間。

 それが、ギムナジウムだったのです。

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