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世田谷文学館の小沢健二

3月29日(日) 世田谷文学館 岡崎京子展『戦場のガールズ・ライフ』 シークレット・ライブ

●テキスト・写真/津田 真

 出版・音楽関係の皆さんは、いざという時には口が堅い、と考えて良いのだろうか。小沢健二が岡崎京子展を開催中の世田谷文学館でスペシャルライブをする、という情報は「いざという時」に十分該当する事件であり、当日会場でアナウンスがあるまで機密は保持されたのだった。あらかじめインビテーションを受け取っていた者たちが、静かな雨の中に集い、たまたま居合わせた来場者は自らの幸運に感謝した。

 本来コンサート向きではない空間に音響設備がセッティングされ、そのせいか調整に多少時間がかかった。とはいえ、この夜の濃密な音楽体験の後では、それは些細なことだった。

 眼鏡をかけ、衿なしの白いシャツで登場した小沢健二は、ワイヤレスのヘッドセットマイクを装着し、ギターを抱えて座り、細かいアルペジオをなめらかに演奏し始めた。きっちり設定されたディレイ・タイムが、一本のギターの音を森の木々がさざめくかのように響かせる。いわゆる《フォーク・シンガーのギター弾き語り》とは全く別の印象を与える演奏だ。歌い出してタイトルが判った。1曲目は“天気読み”。

 ステージ背面には、エリザベスさんが撮影したという写真(展示中の岡崎作品)が、タケイグッドマンによって投影されていく。

 1曲終わると「ドラム回線くださーい」とPAに声をかけ、手元でスマホらしきものを操作する。ここからはシンプルなマシン・リズムを流しながらの演奏がしばらく続いた。2曲目は“天使たちのシーン”。

 全体的に、漠然とだが、もしもジョニ・ミッチェルがジャズではなくソウルにより接近していたらこんな感じだったかもしれない、と感じていた。そのような音楽はどこにもない、と思ったのだ。今この場を除いて。

 そもそも今回のライブは、映像を収録してDVDを岡崎京子さんに観ていただく、という趣旨で開催されたという。つまり本来の観客(=岡崎京子さん)が不在の場でのライブである。しかしこれは例えばスタジオライブのような無人の会場ではいけなかったのだということも理解出来る。そうした微妙なバランスと緊張感、ある種の親密さを、ひと時だけ共有するための空間として《偶然立ち会った人々も多数含まれる世田谷文学館》は結果的に最適の場所だったのかもしれない。時折挟み込まれた朗読も「MC」よりは「音楽」に近く、その音楽は観客が目の前にいることで完成する一通の手紙のようだった。

 様々な偶然に導かれた人々が、この一時間あまり、一緒に一通の手紙をしたため、またそれぞれの場所へ帰って行く。

 全ては一回性であること、その特別さ。

“強い気持ち・強い愛”を歌い終わると、ゲストが呼び込まれ、オルガンに沖祐市を迎えての“流星ビバップ”。ギターはほとんどリズムを取るだけのミュートカッティングになったりしながら、ホットなオルガンのグルーヴが会場を満たす。続く“ドアをノックするのは誰だ?”ではゲストが交代し、サックスにGAMOが登場。前日に武道館公演をしたスター達というより、いちミュージシャンとしての心意気みたいなものを感じさせた。

 個展のタイトルが『戦場のガールズ・ライフ』ということもあり、演奏される予感があった“戦場のボーイズ・ライフ”がクライマックスだった。再びゲストなしの弾き語り。歌詞にある「祈り」がそのまま体現されたかのような、静かで確かな観客の歌声。あの感じが岡崎さんにも届いたら良いのだけれど。

 エピローグのように“東京の街が奏でる”が歌われ、ライブは終了した。小沢健二は最後に、この日最も大きな声で「岡崎京子ー!」と叫んでステージを降りた。

 何故、岡崎京子と小沢健二は友人で、二人の作品や活動は今なお強く支持されているのか。ファンにとっては自明なそのことを、改めて思う。普段は忘れているという訳でもなく、それはあまりにも生活に根付いた我々の文化なのだ。我々の文化、我々の誇り。同時代の最もポップでカジュアルな哲学者たち。

 そしてなお、キャラバンは進む。

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