映画のなかのアイドルたち(1)

●テキスト/長田左右吉

『映画のなかのアイドルたち』というタイトルで、僕が個人的にアイドルっぽいと思う映画たちについて書こうかなぁなどと思っております。

アイドルの魅力ってなんだろうと考えたときパッと思い浮かぶのは、どういうわけだか映画『グレムリン』だったりする。なので今回はジョー・ダンテ監督の1984年の映画『グレムリン』がいかにアイドル映画なのかについて。

あらゆる創作物に触れるとき、そこにどうしても意味とか目的とか糧とか求めてしまう自分がいる。例えば「これ見たら何か仕事のタメになるかな?」とか「この作品の発表された時代性と、当時の作家の状況から鑑みて云々」とか。それはそれで大切なんだろうし、そのような鑑賞スタイルを求める作品もたくさんあるのだろうけど、そういった行為って実はすごくイージーな鑑賞方法だよなとも感じるところがある。そのような鑑賞方法って、つまり【感覚】ではなく【理屈】に頼った鑑賞方法なんだろうなって。心ではなく頭脳。慣れてしまえばそこまで疲労感などなく作業的に作品を消費できるようになるし、「何か見た」という感覚にもなれる。
少し話は変わるけどとりわけ僕の好きになったアイドルたちはそういった鑑賞方法を許してくれなかった。彼女たちのパフォーマンスに明確な意味やテーマ性など見つけづらい。無理矢理その魅力を論証してみても理屈などでは捉えられないーー言い換えればちょこざいな理屈など挟む余地なく、僕の感覚に直接的に痛烈なボディブロウを食らわし思考停止させてくるようなパフォーマンス。無価値、無意味、無責任、無駄なのにやたらと心を揺り動かさせるーーそれが僕の好きなアイドルたちの魅力だった。

で、『グレムリン』の話。
グレムリンっていうのは、作中に登場するモンスターの名前で、最初はギズモという愛くるしいペットなんだけれど、深夜12時以降にエサを食べると邪悪な緑色の小鬼のグレムリンに変身してしまう。さらにこいつらは水をかけられると無数に増殖。凶暴なイタズラや悪ふざけばかりして、一匹だと簡単に退治できるんだけど、いつの間にか増えちゃって取り返しのつかないことになるというそんな連中。
グレムリンたちの行動に意味はない。無意味に過激なイタズラをしてバカ笑いする。責任なんて言葉は辞書にはないし、存在することに価値なんて一切ない。例え彼らがもっと増殖したところで、ただ無意味な悪ふざけの度合いが増すだけだし、『ゾンビ』みたいに文明が崩壊することもなければ、『ロード・オブ・ザ・リング』のように世界が暗黒の支配に陥ることもない。主人公は別に成長しないし、劇中でトラウマを告白するヒロインは別にそれを克服しようともしない。そもそもこの映画自体がある意味とことん無駄な映画なんじゃないかと(それは『ルーニー・テューンズ』のキャラが一緒に暴れ回るパート2になるとより強調されることになる)。
『グレムリン』を見ていると、昼間一生懸命働いてたことや日々の生活の悩みなんてホントどうでもよくなってくる。小鬼たちの過激でバカな悪ふざけは、観客たちが普段縛られている【意味】や【目的】という呪縛を解き、【ほとんど全部無意味】という世界へと解放してくれる。
そして、もうお分かりかと思うけれど、アイドルの魅力と『グレムリン』の面白さはとても似ている。

あと小鬼たちと少女たちに共通する魅力がもう一つ。最初はカワイイんだけど、やがてどちらも大人たちの手に負えなくなってくる存在だということ。フリーダムでアナーキー、無邪気でかつ凶悪、知的でクレイジー。

そういえば僕は《少女閣下のインターナショナル》というアイドルグループの運営・演出をしておりまして……はぁ……。

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