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これからどうやって学習していけばいいのだろうか。環境が大事?!

学びは与えられる時代ではなくなってきたのではないか。

これまではいろいろなことを知っている人から教わる必要があった。
だから、「教育」という言葉は、「教えて育てる」という知っている人の視点で作られた言葉が教育なんじゃないかな。

知っている人は先を生きる人、つまり「先生」は情報量において、生徒よりも豊富だったのだけど、それがフラットになってきている。

情報が民主化して、誰でも簡単にあらゆる情報にアクセスできるようになった。学びは変わったし、変わらなければと思う。

もちろん、情報には良し悪しがあるので、先を生きた人の方が、情報取り扱い経験値では秀でていることも多いはず。でも、情報の良し悪しの判断は、ますます難しくなって、どの年代でも難しいばかりか、フェイクニュースに至っては業界に携わらない人ほどわからないのではないかな。

おまけに正解がわからない・ない時代だとも言われていて、情報へのアクセスが容易になった分、多様になり、社会は複雑になった。

これまで通りの教育をしていたらいけないと思うのだ。僕は。

人がどの方向に成長するかは、とても繊細で責任の大きい話なので、大それた革命を起こそう!という気持ちはないのだけど、出来ることはないだろうかとは日々思っている。

前に読んだ学校の指導要領の冒頭には、「日本国民としてあるべき姿」から発せられていた気がするので、グランドデザインでは日本政府が責任を負っているのだろうなぁ。

そんな偉い人たちが決めた教育業界を変えることは、しないのだけど、どのように人は学ぶのかを見直してみたい。

ところで、僕の息子は、ルービックキューブがとても早い。30秒以内に揃えられる。

ルービックキューブが大好きで、いくつも持っているし、「スピードキューバーズ」というNetflixのドキュメンタリードラマを何度も見ている。

彼は30秒以内を実現するために、日々努力を重ねていた。僕の関心どころは、彼が「いつ・なぜそうなったのか」だ。

彼が好きになったのは、ルービックキューブだっただけど、野球でも将棋でも良かったはず。数学でも英語でも良かったはずなのだけど、彼はルービックキューブを選んだ。

当時は9才の彼がルービックキューブを知ったのだろう。きっかけを思い返すと、父である僕が、ルービックキューブで遊んだがある。

コロナ禍で在宅が増え、この期間に一つくらい新しいことを身につけようと始めて、時間はかかるが全面揃えられるようになった。息子はそれをみていた。

僕はyoutubeでルービックキューブの揃え方を学んだ。
再生回数が数万ある動画がたくさんあったので、それなりに需要があったのだろう。僕ももしかすると無意識に刺激されて、揃えたくなったのかもしれない。

考えられるのは、息子も僕やyoutuberがやっていることを目にして、無意識に刺激されたということ。

で、マーケティングの法則を思い出した。

マーケティングにはAIDMAという法則と、マーケティングファネルというフレームワークがある。

AIDMAはユーザーが商品を欲しくなるまでのプロセスを表したもので、Attention(注意)、Interest(興味)、Desire(欲求)、Memory(記憶)、Action(行動)の頭文字をとったもの。

人は、商品の存在に気づき、興味を持って、欲しいと思い、記憶に留まって、買う行動を起こすというの流れなのだ。

マーケティングファネルはこれに似ていて、認知→興味→検討→購入まで、潜在顧客は減っていくというものだ。1000人の人が認知したとしても、興味を持つ人は500人。検討するひとは、250人で、購入は125人だよね、みたいな考え方。

ルービックキューブでいうと、世間的に需要が高まって、無意識に刷り込まれ、認識するようになった僕や息子は、興味の段階に進んで、実際にやってみたことになる。

揃えるには揃えたが、もっと速くしたい。他にもやるべきことがあるけど、速くする方に時間を割こう(検討)。そしてついに30秒切った!みたいなプロセスが似ていると思うのだ。

「いつ・なぜそうなったか」は、マーケティングにならうと「認知したとき」となる。そしてその前に、無意識に刷り込むがあるように思う。

哲学者のレヴィ=ストロースは、構造が人を作ると言っていて、僕も賛成だ。
だから、無意識に刷り込む構造や環境が大事なのではないかと仮説できんじゃないか。

学ぼう!と思ったときに、学ばなければならない環境に身を投じるという手段もある。
同時に、気が付いたら楽しくて学んじゃってたよ!ということもある。

前者の方が論じられやすいけど、後者を意識的に作り出せないだろうか。そして学びは後者にどんどんなりつつあるのではないかと思うのです。

先日、「漢字でGO」という難読漢字を解くゲームを子供達にさせたら、90分たっぷり楽しんで学んでいた。ほぼ全員がyoutubeでみたことがあると言っていた。(そしてやってみたかったのだ)

意識的に仕掛けられることも、いくつかの実験をしてみたい。興味関心があるのとないのとで言えば、楽しいか楽しくないかだ。
好きこそ物の上手なれ、が最強を産む。それは才能にも匹敵するんじゃないだろうか。

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