旅程の話:何に時間を使うかを決める時に考えている事

これ↓を見て、なんか喋りたくなったのでtwitterに書いてたら結構長くなったのでこっちにも残す。今考えたというよりは普段から考えている事。

ライフステージによるリソースのボトルネックの変遷の話

まずこの話は、ライフステージによるリソースのボトルネックの変遷の話がありますよね。学生だと時間は沢山あるけど金はそんなにないがち。社会人になると金に余裕はあるけど時間に余裕がないがち。ここ迄は消費のスタンスとは無関係に多くの人が体験しそう。

ちなみに私、時間も確保しようと思って、週に3日しか働かない生活してますけど、ひとり暮らしなので家事全部自分でやっているし、学生の頃との違いとして「自分のコンディションを整えるための時間」が必要になっている。学生の頃より時間があるのかと言われたら、わからないというのが正直なところ。

(そして意識せざるを得ない、いわゆる「生きる残り時間」)(あと、家庭を持った人は、それ以外にもいろんな事に時間が必要だから、本当に大変なんだろうなと)

娯楽の交換可能性

そして次に考えなきゃいけないのは「娯楽の交換可能性」じゃないかと思っていて。ゲームの200時間と映画の100*2時間を比較する事はどれだけセンスがあるのか。共通項もかなりあるとは思うんだけど、どちらにも逆側では体験できない要素がある、これにどれだけの価値を見るか。

(私のゼノブレイド2への評価が低いのは、評判の高いストーリー部分の交換可能性が高く感じられたというのが理由として大きい)(これならアニメで良いわ、っていう)

学習目的、気晴らし、暇つぶし、どういうスタンスでも、こういうふうに評価軸を割って考えれば良いのだと思う(自分がどこに価値を置くのかは、実際に色々触れていく中で掴めるのだろう)。漫画家の内藤さんは、ゲームの方の交換不可能部分の評価が相対的に低くなった。そういう人もいるよねという。

運営型ゲームの「周回」の交換可能性

で、じゃあ、プレイヤーに周回や無為な作業を強いるゲーム、これの交換不可能部分って何なのだろうね…という話になって。元々は「やることがないとその場にいる理由がない→いないと交流が活発にならない」という経緯のはずだから、「その場にいられる理由」、これは好むかどうかは別として、わかる。

あとは、「ボタンを押して数字が増えたら楽しい」の延長線上。人間はいつもいつも頭をフル回転させて娯楽に興じられるわけでもなくて、場繋ぎとしてでもそういった充実を得る、これもわからないわけではないよねという。そこにお金稼ぎが絡んで大きく発展した。

自分の場合は繰り返しの作業の価値はすごく低くなるけど、例えばグラブルは、2016年にやめた当時は周回が大変=数字が増える要素が薄かったのだけど、フルオートが入って、ここが濃くなった後に復帰して、そのまま続けられている。逆に薄いままのFGOはもうメインしか追いかけていない。みたいな例。

消費をより楽しむためだけにゲームを作り始めたって話

自分が最近やっているのは、同じゲームをやるなら、いろんな角度から体験できたら密度が上がるよねという事で、そのためには一度自分でしっかりゲームを作って、悩んで頭を捻ってみるという体験が利くのではないかという仮説を立てて、それでちょっと作ってみているという事。

(遊んでるゲームがこうだったら良いのに、みたいなのを最も説得力のある形で言う方法は実物を作って殴る事だろうと思っているのでその動機もあるが、この話からは逸れる)

実際「誰かに楽しいと思ってもらいたい」みたいな動機はほぼゼロで、ほとんど自分のため、消費のためだけにやっているような感じ。自分が消費するオタク(?)である事を変えたいとも思ってない。(ある程度できたら、もったいないのでどこかで公開するかもしれないけど)

出典(Twitterスレ)


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