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わたしを見つけてくれて、ありがとう

先日あるラーニングイベントに行ったとき。
席でイベントの開始を待っていると、顔見知りの主催の先生から名前を呼ばれた。
何だろう、と「はーい」と返事しながら近づくと、その日のスピーカーの方の近くに歩いていき、「ご紹介したことありましたっけ?」と聞かれた。要は「ご紹介」をしてくれようとしたのだ。
ありがたいことに、実は半年近く前の別のワークショップで既にお引き会わせいただいていたので、「あ、以前ご紹介いただきました。ありがとうございます。」と答え、「ああそうでしたっけ(てへっ)」とその場は終わった。

席に戻りながら、何だかとてもあたたかい気持ちにひたひたとひたされた。

紹介済だったことを忘れられていたとは言え、先生はこのイベントで機会を見てスピーカーの方と私を引き会わせよう、と思ってくれていた、ということなのだ。わざわざ。そういう風にわざわざ思ってくれていたということ、先生の中に私が何かの意味を持って一瞬でも片隅に存在していたということが、とてもとてもありがたく感じたのだ。

ちょうどその時、私は久し振りに深い憂鬱にはまり込んでいた。
世界中の誰もかも偉い奴に思えてきて、まるで自分一人だけがいらないような気がしてしまう、そういう憂鬱。居場所がない、誰にも求められていないという憂鬱。
そんなことをぐるぐる考えていたって何も変わらないんだから手を動かせ、と思っても、手を動かしながら「私はいらない人…」と溜息をつくくらい重症だった。

そんな時に、自分が尊敬している人に存在を覚えてもらっていたこと、誰かに紹介しようと思ってくれていたこと、ささやかながら関心をもってもらえていたこと。それがどんなにか私に力をくれたことか。冷えきっていた心に血をめぐらせ、水底に沈んだ自尊心を浮きあがらせるきっかけには十分だった。

映画「シムソンズ」で一番好きなシーンで、シムソンズのメンバーの一人が

「ありがとう!私を見つけてくれて!」

と叫ぶところがある。彼女はクラスの隅でひとりきり、自宅の牧場の手伝いをしながら地味に日々を暮らしていたのだけど、日々磨かれたブラシさばきがきっかけで主人公が結成するカーリングチームにスカウトされとても充実した日々を送れるようになった。でも親に隠れてカーリングをしていた別のメンバーが親バレしてしまい、チームから離れるよう言われて、チームでカーリングができなくなってしまう。その子の家に行き、二階に向かって外から大声で言うセリフが「ありがとう!私を見つけてくれて!」だった。誰かに関心を寄せてもらい、見つけてもらい、居場所ができるって、こんなにもうれしいことなのだ。

だから何度でも伝えたい。「ありがとう!私を見つけてくれて!」。
見つけて気にかけてくれて本当にありがとう。ありがとう。
その思いに力をもらえて、また何とか日々を生きていける。自信がないことに変わりはないけれど。

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