ラジオと本と私と「まっさん」

[初出:久谷女子便り第7号 特集「WEB女子と<偏愛>」]
※最後までお読みいただけます

あの頃、人生の大半は「さだまさし」だった。(以下「まっさん」)

中学生から大学生にかけての、思春期から青年期と言われる、ただでさえ多感な時期。その時のゆらゆら揺れる心を支え、知的好奇心の元になっていたのは、まちがいなく銀縁メガネをかけた、ほっそりとした青年のあの人だった。

今のまっさんしか知らない方には意外だろうが、当時の彼は繊細さと知性を感じさせる風貌で、私のメガネ男子好きは間違いなくここが原点となっている。

そんな一途に偏愛していた時代の思い出話を少々書かせていただく。

初めて買ったLPは、ソロ3作目の「私歌集(あんそろじい)」。お年玉で、新潟駅前の石丸電気で買った。家にはレコードプレイヤーもないからすぐには聴けないのに、手元にあるだけでただ嬉しかった。でも曲が聴けるのはラジオやごくたまにテレビに出演する時だけ。当時はちょうど「雨やどり」「関白宣言」が売れて、地味なシンガーソングライターにしては露出もあった方だった。

そんな私が唯一まっさんの肉声と近況に触れられるのが、ラジオだった。当時私は新潟に住んでいたが、夜になると新潟でも東京のAM局の電波が入っていた。特に文化放送、ニッポン放送は、地元局ほどとはいかないがそこそこ聴ける状態で、当時文化放送で毎週やっていたまっさんの番組を、アンテナの方向をこまめに微調整しながら聴いていたのだ。テーマ曲が「最終案内」だった「さだまさしの気ままな夜間飛行」に始まり、その後「天文学者になればよかった」がテーマ曲の「さだまさしの全力投球」、そして「さだまさしのセイ!ヤング」と続いたラジオタイムは田舎に住む学生ファンにとってささやかな至福の時間だった。

ラジオで一度だけハガキが読まれたことがある。その昔春のセンバツに長崎から諫早高校が出場したが、隠し球で負けたという試合があった。私は諫早出身の父をダシにしてハガキを書いて、幸運にも読んでもらえた。自分の名前をまっさんに読んでもらえた時の幸福感といったら。

ラジオの他にまっさんを楽しんだのが、本だった。

<実家から持ってきたさだ本の数々>

デビューしたグレープというグループを解散してソロになってから、まっさんはよく本を出していた。歌詞とライナーノーツを収録したものからエッセイやコラム、短編小説にステージトーク書き起こしまで多種多様だった。初めて手にしたまっさん本は、おそらくグレープ時代とソロ第一作の歌詞とライナーノーツを収録した「帰去来」とエッセイ集「本~人の縁とは不思議なもので」だったと思う。お小遣いか何かで買い、一字一句を貪るように何度も繰り返し繰り返し読んだ。

彼の書く歌詞は短編小説のようだとよく言われる。丁寧な情景描写、季節のうつろいや人の営みを時には少し古めかしい言葉で表現する。ストレートな感情表現より何かに託した言い方をすることが多く、そんなリリカルな世界がとても好きだった。「檸檬」を理解したくて梶井基次郎を読み(でも中学生には難易度が高すぎた)、「僕にまかせてください」の原題が「彼岸過迄」だったと聞いて漱石を読んだりした。まっさんあっての文学読書となっていて、多大な影響を受けたと感じている。

その後コンサートに行けるようになって、歌詞と裏腹の爆笑トーク、しかも歌よりトークが長いということに驚き、以降美しい歌に涙し、トークで爆笑し、合間に曲名をメモするという正しいさだファンのコンサートマナーを遂行するようになるのだが、それはまた別の話ということで。

最後に、中学生の時から不動のマイナンバーワン、そしてまっさんファンの間でも不動のナンバーワンとなっている「主人公」という曲の一節をご紹介したい。この言葉に励まされて人生ずっと生きてきた、大切な一節。

「自分の人生の中では 誰もが皆主人公」「私の人生の中では 私が主人公だと」

==ここまで==

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