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「語り」の力

人が、テレビ番組のナレーションに求めるもの、期待するものは何なのか。少なくとも私にとっては何なのか。
そんな大層なことを考えさせられたのが、先日放送されたNHKスペシャル「若冲天才絵師の謎に迫る」だ。

高精細カメラやコンピュータによる色彩再現などの技法により、なぜ私たちは今こんなに若冲の絵に心ひかれるのかを明かそうとする番組はとても興味深い内容だった。のだが、その精細な画像やそこで若冲が使ったと思われる様々な技術の解説にどうしても集中できない。その原因がナレーションだった。

初めて名前を見る若い女性だったが、その人の語りが、どうしても耳について、集中を削ぐ。消したいけど録画で見ているので字幕にすることができない。結果激しいストレスに耐えながら最後まで見ることとなり、内容もあまり頭に残らなかった。非常に残念だった。

同様の感想を持った方はそこそこいらしたようで、ツイートやブログでそのあたりの感想を述べられているのを散見したが、一方で「言うほど気にならなかった」という方々も身近にいらっしゃり、感じ方はさまざまなのだという当然のことを改めて思い知らされた。

ここに書くことは私個人の感じ方、好みの問題なので、他人に強要するものではない。ただ、自分でも少し整理しておきたいと思ったので、考えたことを少々書いてみる。

問題はとてもシンプルで、滑舌と発音(声)だ。少なくとも私はそこでひっかかった。こういった種類の番組ならば、思考の邪魔をしない、スムーズに解説の文言を頭に届けてくれ、画面の微細な分析に集中させてくれる、そういう語りが欲しかった。情感とかそういうものが欲しかったのではなく、むやみに重厚さを強調してほしかったわけでもない。ストレスなく、情報を脳内に届けてくれる、そういう語りであってほしかっただけであり、今回は残念ながら私にとってはそうではなかった、ということだ。他の方も書かれていたが、これが「ドキュメント72時間」のような番組だったとしたら全く違和感がなく、むしろ効果的だったかもしれない。

番組はもちろん意図を持ってナレーションのキャスティングを行ったのだろう。「新しい」試みをしてみたかったのかもしれない。若冲をもっといろんな人にとどけたかったのかもしれない。もしその意図がうまく当たったのならば、残念ながら私はその「圏外」だったということなのだろう。

先日行ってきた国立公文書館の「特別展 徳川家康」のナレーションは「真田丸」で一躍注目を浴びた高木渉さんだった。ずっとプロの声優として活躍されてきただけあって、基本技術は言うまでもないが、押しつけがましくなく、展示を見るペースを図ったかのように進む語りはまさにプロのものだった。そしてあの高木さんの声で聴くことで、内野聖陽さん演じる「真田丸」の家康をイメージしながら展示を見て楽しむことができた。語りはそういう相乗効果も持つ。様々に大きな力を持っているのだと、今回のことで改めて感じた。

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