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臆病

私は臆病者だ。
まだ何もおきていない未来の事を
ネガティブに考えて行動できない。
そういう人生を生きてきた。

聖書を読んでいると
私と考えが違う人がたくさんでてくる。

ある村に入ると、
十人のツァラアトに冒された人が
イエスに出会った。
彼らは遠く離れた所に立って、
声を張り上げて、
「イエスさま、先生。
 どうぞあわれんでください」と言った。
イエスはこれを見て言われた。
「行きなさい。
 そして自分を祭司に見せなさい。」
彼らは行く途中できよめられた。
ルカの福音書 17章12~14節

この十人のツァラアトという病気に
苦しんでいた人たちは
おそらく風の噂で聞いたのだろう。
イエスという人が病気を治してくれると。

ベンハーという映画を見た人なら
わかると思うが、この当時
伝染病のツァラアトにかかった人は差別された。
出歩くにも
私はツァラアトですという鐘を
鳴らしながら歩く。

もし私がこの十人の中の一人なら
確かに遠く離れた所から
藁にもすがる思いで叫ぶだろう。
ここまでは一緒だ。

彼らにキリストはこう答える。
「行きなさい。
 そして自分を祭司に見せなさい。」
そして彼らは行く途中で病気がなおるのだ。

私にはこれができない。
行く途中は5分なのか一時間なのか
わからない。
そして祭司にアポをとりつけていないから
会えるのかさえわからない。

キリストなら病気を治してくれるけど
この癒されるまでの時間
また私は人々から差別される。
ときにはそんな奴出歩くなと罵倒される。
その途中で心が折れる。

そしてこう思う。
風の噂であなたは私に触れたその瞬間
私の病気を治すと伺いました。
私にもそうしていただけませんか。
それから祭司の所に行きますと。

おそらく私は一歩たりとも
その場から動くことができない。
おきてもいない未来を想像して。

これを母親に話すと
笑いながらそれじゃ信仰にならないじゃない。
でもあなたは私の半分しか生きていない。
そう思うのも仕方がないけど、大丈夫。
信じれるようになる。と言われた。

できるようになるのだろうか。
そう思いながら家庭祈祷会のデボーションを
読み始めた。

盲人が道ばたで
「ダビデの子のイエスさま。
 私をあわれんでください」
と大声で叫ぶ箇所だった。

そしてキリストは彼を連れて来させて
「わたしに何をしてほしいのか」
そう彼に聞かれた。

そうだった。キリストはこういう方だった。
臆病者の私が信じることができない時は
こう問いかけてくださる
どこまでも憐れみ深い方だった。

そう思うと涙が溢れてとまらなかった。
そしてこの問いかけに瞬時にこう思った。
「あなたのことばを信じ続ける心がほしいです」

あなたのことばを信じ続けるなら
私はどこにいても何をしていても
どんな状況でも生きていける。
祝福と恵みをうけつづけながら。

私の将来はキリストを信じた瞬間に
光に満ち溢れたのだ。
恐ることはひとつもない。

この問いかけに
「主よ。目が見えるようになることです」
と言った彼がたちどころに
目が見えるようになり癒されたように、
私の臆病な性格も必ず治るだろ。
愛と恵みに満ち溢れた方に
祈ったのだから。

「わたしに何をしてほしいのか」
ルカの福音書 18章41節


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