ユレてなんぼの人生が味わい深いものになる
なんかこう、インナーチャイルドの癒しとかそういうのあるよね。
そういうのやっていたり自分の過去について深掘ったりしていると、今までニュートラルに見ていた対象や関係性についての見え方がギュンッ!とポジティブなのかネガティブなのかどっちかの極に振り切れることってあるよね。
「今まで自覚してなかったけどトンデモナイ成育歴だった」
とか、
「気のせいだと思っていたけど、これはやっぱりおかしいぞ」
とか。
あるいは
「酷いと思っていたけど、それなりに大事にされていたな」
とか、
「周りも皆一生懸命だったんだな」
とか。
自分はある事柄について数か月間マイナスの極で針がジジジジッ…て細かく揺れて留まっていたんだけど、この間自分が自分なりに集めてきたマイナス情報(その情報を受けて自分が再認識した思考も含む)とは別の情報を目の当たりにすることがあって「あれ?」と思った。
あるとき、両親に思いきって聞きたいことを聞いてみたんだ。
そしたら、どんな想いでこれまで生きてきたのか聞けてさ。
全然そんな風に見せないし、そんなこと言わない人だから周囲には全くその想いが伝わっていないんだけどさ。
この人達もひとりの人間なんだなって初めて思った。
あぁ、まだ自分が知らないことって沢山あるんだなと思ったら
父親から○○君という一人の人間が見えてきてさ、
母親からは○○さんという一人の人間が見えてきてさ、
それと同時に子供時代の二人も見えてきてさ。
同じ”人間”なんだけど、それぞれの立場とか役割があるから自分とは違う”人間”として見ていたし、その見方を変えようとも思わなかった。
表現が難しいんだけど、今までその立場と役割の人としてその人を見ていたんだなあと気が付いた。
そして、その立場と役割の中に隠れるようにして繊細で柔らかなその人本来の自分がいるんだなって思った。
それを経て、今回は人間関係の側面からだったけど
こうやって認識の幅を広げてその中でブンブン揺れながら自分なりの中庸を見つけていくのか
と知った。
今回この人達との関係性はマイナス極になったと思っていたけど、反対のプラス極に振れたことで自分の認識が広がって、その中で新しい関係性の捉え方ができるようになった。
”両親” ”親子” から
”人間の仲間”になったって感じ。
ある意味サッパリしたし、自立して自分の輪郭がはっきりした。
なんか、いったん極に振り切ったらさ
そのままそこに留まって世界を再構築しようとしてない?
その世界の中に自分を固定しようとしていない?
特に身近な人や物事に対してはそうなりやすいかもしれないし、見え方を疑うことも思いつきにくいかもしれない。
だけど、きっと一度どちらかに振り切れても反対の極に振れて、また戻ってを繰り返しながら丁度よい”自分”という真ん中に戻ってくるのが人生の面白さなのかもしれないなって思った。
これが、自分なりの人生の味わい方かな。
色んな情報が溢れる世の中で、あっちこっちに振り回されることもあるけれど、その中にいても”自分”という真ん中を見つけることをどうか忘れないでね。
揺れた分だけ自分だけの味わい方になっていくよ。