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再開のお知らせと新著紹介 9/19

〔51の2〕再開のお知らせ
 ここ一週間ばかり入院準備および入院で休業しておりましたが、ようやく明日退院の運びとなりました。
 手術熱が下がった十七日から作業を始めましたが、気にかかっていた拙著の次巻『國體志士大杉栄と大東社参謀甘粕正彦の対発生』の校正が滞っていたのでこの二日をそれに宛てました。
 その校正も先刻済ませたので、さて事業再開といたしますが、ここは次巻の紹介として、以下にその一部を発表いたします。

 大杉栄が後藤新平からアドリフ・ヨッフェに対する密書を委託されて北京に密行した事実は、今でも世間にはほとんど知られていません。この事を不肖が初めて知ったのは、国策研究会の創立者矢次一夫(1899~1983)の著『昭和動乱私史(上)』によるものです。その三五八頁に驚くべき言がありますので、下に掲げます。

 (前略)また大杉は、後藤新平からヨッフェあての密書をもって北京を訪問後、フランスに渡り、パリー郊外で行ったメーデーの路上激励演説で逮捕され、仏国政府の国外追放で、(大正)十二年七月、日本に帰って来た。そして間もなく九月一日の大震災にあい、憲兵隊によって絞殺の悲運に会している。この間僅かに二カ月、まさに運命というべきであろうか。(傍線は落合による)
 
 東京市長後藤新平が、ロシア革命のために大正七(1918)年以来断交状態になったロシアとの国交再開を願い、当時ソ連の中華民国駐在大使であったアドリフ・ヨッフェ(1883~1927)を日本に招聘する密書の伝達を大杉栄に託したというのです。
 これほどの大事を託した大杉に相当の金額を前払いするのが当然ですから、大杉が大正十一年十二月十一日に家を出る前にかなりの活動資金を支給すべき後藤新平が立場上表立ってできない支払いを託したのが有島武郎(1878~?)と不肖は洞察します。?〔52〕再開のお知らせ
 ここ一週間ばかり入院準備および入院で休業しておりましたが、ようやく明日退院の運びとなりました。
 手術熱が下がった十七日から作業を始めましたが、気にかかっていた拙著の次巻『國體志士大杉栄と國體参謀甘粕正彦の対発生』の校正が滞っていたのでこの二日をそれに宛てました。
 その校正も先刻済ませたので、さて事業再開といたしますが、ここは次巻の紹介として、以下にその一部を発表いたします。

 大杉栄が後藤新平からアドリフ・ヨッフェに対する密書を委託されて北京に密行した事実は、今でも世間にはほとんど知られていません。この事を不肖が初めて知ったの、国策研究会の創立者矢次一夫(1899~1983)の著『昭和動乱私史(上)』によるものです。その三五八頁に驚くべき言がありますので、下に掲げます。

 (前略)また大杉は、後藤新平からヨッフェあての密書をもって北京を訪問後、フランスに渡り、パリー郊外で行ったメーデーの路上激励演説で逮捕され、仏国政府の国外追放で、(大正)十二年七月、日本に帰って来た。そして間もなく九月一日の大震災にあい、憲兵隊によって絞殺の悲運に会している。この間僅かに二カ月、まさに運命というべきであろうか。(傍線は落合による)
 
 東京市長後藤新平が、ロシア革命のために大正七(1918)年以来断交状態になったロシアとの国交再開を願い、当時ソ連の中華民国駐在大使であったアドリフ・ヨッフェ(1883~1927)を日本に招聘する密書の伝達を大杉栄に託したというのです。
 これほどの大事を託した大杉に相当の金額を前払いするのが当然ですから、大杉が大正十一年十二月十一日に家を出る前にかなりの活動資金を支給すべき後藤新平が立場上表立ってできない支払いを託したのが有島武郎(1878~?)と不肖は洞察します。(有島の没年は未詳です)。

 矢次一夫著が発刊されたのは昭和四十六(1971)年四月三十日ですから、実に半世紀を経て不肖の眼前に届いたのです。
 昭和四十六年と謂えば、七月十五日の「ニクソン訪中宣言」による国際秩序の転換と八月十五日の米ドル・金の兌換停止宣言によるブレトンウッズ体制の終了により、第二次大戦後の政治と経済の体制が崩壊期に入った年です。
 つまり世界史における特異年ですが、その意味は半世紀後の二〇二一(令和三)年に至り、ようやく万人の眼に見える形で顕われてきました。
 矢次一夫がサラリと書き流したこの一文に注目した者は言論界にも報道界にもいなかったらしく、不肖の耳目にまったく入ってこなかったのですが、日本近現代史を一生かけて研究する史家の中に、この一文に注目した者はいないのでしょうか?
 尤も仮にいたとしても大方の歴史学者はその意味を理解できないでしょうし、たとい理解したとしても彼らの創ってきた大正思想史がこの一語で完全に転覆することは明らかですから、それを恐れてこの五十年間ひたすら無視し続けてきたと見るよりほかはありません。
 矢次一夫著が発刊されたのは昭和四十六(1971)年四月三十日ですから、実に半世紀を経て不肖の眼前に届いたのです。
 昭和四十六年と謂えば、七月十五日の「ニクソン訪中宣言」による国際秩序の転換と八月十五日の米ドル・金の兌換停止宣言によるブレトンウッズ体制の終了により、第二次大戦後の政治と経済の体制が崩壊期に入った年です。
 つまり世界史における特異年ですが、その意味は半世紀後の二〇二一(令和三)年に至り、ようやく万人の眼に見える形で顕われてきました。
 矢次一夫がサラリと書き流したこの一文に注目した者は言論界にも報道界にもいなかったらしく、不肖の耳目にまったく入ってこなかったのですが、日本近現代史を一生かけて研究する史家の中に、この一文に注目した者はいないのでしょうか?
 尤も仮にいたとしても大方の歴史学者はその意味を理解できないでしょうし、たとい理解したとしても彼らのこさえてきた大正思想史がこの一語で完全に転覆することは明らかですから、それを恐れてこの五十年間ひたすら無視し続けてきたと見るよりほかはありません。

 以上が新刊の一部です。新刊の副題は目下思案中ですが、「伊藤野枝は殺されていない」とか「後藤新平の資金ルートは有島生馬」などが浮かんでいます。というと驚かれることも察せられるので、次項でも少し説明します。

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