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満洲事変の本質とウクライナ事変(2) 12/21

〔108〕満洲問題の本質と国際共産主義(2)
 満洲問題の再現ともいえるのが目下進行中のウクライナ事変である。
 それはさて、世界史的特異日の十一月九日に何か世界史的事件が起るが特にドイツに注目せよ、と言った手前、連日国際ニュースに注目していたた白頭狸の眼前に重大事件の発生が相次ぎ、どれが最大などと決められるものではない。
 そこで十一月八日前後に世界各地で発生した事件を軽重順に並べて見ることにしたが、社会事象が事件となって発現するにはそれなりに時間が掛かるから、十一月八日だけに焦点を当てた場合には重要事件を見逃す恐れがあり、またどの事象を以て社会事象の発現と観るかは視点によって異なるので、この場合は前後一カ月を見渡すべきものと思われる。
 諸兄姉御高承の通りで、その期間に発現した世界史的事件は極めて多く、とうてい枚挙できるものではないし、またいずれの事件も軽重順位を定めるに困難があるから、今は白頭狸の頭に浮かんだ順に、幾つかを述べて見ることとした。
 ドイツでは、クーデタ計画が発覚して要人数百名が拘束された。東ドイツを併合して以来共産主義化が進むドイツで、旧西ドイツの伝統を保持することを願う保守派が現政体に対して反乱を計画したもので、これが世界史的事件である所以は、「分断国家の統合は必ず“北剋南”の形とする」という戦後体制の原則の一つが揺らいできたことを示すからであるが、事件の規模などはいまだ判明しないから論評はここまでとする。
 ちなみにドイツの場合は“北剋南”が地形上の理由で変形して“東剋西”となったのは説明するまでもない。
 分断国家はWWⅡの結果だけではなく、近来のソ連解体においても発生した。目下進行するウクライナの東西分割がそれでが、ソ連邦崩壊の最中の平成三(1991)年のウクライナ独立宣言が、ウクライナとロシアの間の民族的・歴史的事情を無視したものであったことから発生したものである。
 ウクライナ独立宣言により、多数のロシア系住民が棲む東部ウクライナ、クリミア半島およびヘルソン州をウクライナ領内に取り込まれたロシアは、この事態を黙認できずに侵攻したが、東部ウクライナ及びクリミア半島でも親ロシア勢力がウクライナからの独立を要求して騒乱が生じた。
 その騒乱を一応収めたのがロシア系住民の自治権を認めた平成十六(2014)年の「ミンスク合意」であるが、これをウクライナ側がを破ったことを見逃せぬロシア大統領プーチンが侵攻し、ドンパス戦争が始まった。その延長が目下進行中のウクライナ事変である。
 ウクライナ問題の原点は、誰がみても平成三(1991)年のウクライナ独立に逢着する。つまり、この独立はこの地域における歴史的・民族的背景を徹底的に無視した不自然不合理なものであったことである。
 ソ連崩壊の混乱を利用して、この不自然不合理なウクライナ独立を実行させたのが、国際金融連合と結託したペンタゴンの軍務官僚軍人およびオバマ・バイデン指揮下の米国民主党勢力であることは謂うまでもない。
 満洲事変の歴史相似象としてウクライナ事変を観れば相似的要素は以下の如くである。
 
       満洲事変          ウクライナ事変
 時期   昭和六(1931)年      令和四(2022)年
主戦場   満洲奉天            東部ウクライナ
侵攻指導者 関東軍作戦参謀石原莞爾     ロシア大統領プーチン
侵攻戦力  関東軍             ロシア軍・北鮮傭兵
相手指導者 奉天政権統領張学良       ゼレンスキー大統領
相手戦力  奉天軍             アゾフ大隊・NATO傭兵
侵攻名分  張学良排除           露系住民の救済
侵攻目的  満漢分離            クリミア半島の露領編入
結果    満洲建国           (予想)ドニエプル河東岸と
                     クリミア半島のロシア領編入
西側の定義 帝国主義日本の中国侵略    プーチンの野望的侵略
 
本質    植民地解放戦争の端緒     國體ロシアと国際共産主義の
                     代理戦争
     
行方    WWⅡ            (予想)世界最終戦争 
 
 相似事項はおおよそ右のようなものであるが、理解に悩むのは、満洲事変の本質を「植民地解放戦争の一端」と位置づける事であろう。
 すでに述べたように、世界最終戦争たる将来の日米戦争において日本が優位に立つためには、現状植民地である東南アジア諸地域を日本軍の力で解放して独立せしめ、その協力を得て大東亜共栄圏が成立するまで、隠忍自重しながら待機すべきことを説いた石原莞爾が、その端緒を成す軍事活動として満洲を確保したのが満洲事変である。
 満洲族の故地満洲は清朝末期に経済難民として浸入した漢族が瞬く間に住民人口の過半に達したため、愛新覚羅家の棟梁醇親王が一時的に馬賊張作霖に統治権を与えて軍政を布かせた結果、漢族植民地のごとき外観を呈していた。
 事実上の奉天王となった張作霖は、昭和元(1926)年末に北京に入り北京政権を掌握して安国軍大元帥を称したが、昭和三(1928)年に蒋介石の北伐軍に追われて奉天に逃げる途中、柳条湖で爆殺される。その子張学良が奉天政権を継ぎ、親英米外交に転じたことで発生したのが満洲事変である。
 実は愛新覚羅氏の傭兵だった張作霖が死亡した後、奉天王を継いだ息張学良が国際共産党に取り込まれると、完全に植民地と化す恐れがあった満洲から張学良と奉天軍を排除したのが満洲事変である。
 

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