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〔203〕石原莞爾の「反グローバル主義」に傾倒した吉薗周蔵 7/23修文 きわめて重要な追加を行ったので、是非再読してください。

〔203〕石原莞爾の「反グローバル主義」に傾倒した周蔵
石原莞爾の世界観と反グローバル主義、および対米戦争に関する構想は、前項202〕で、ご理解頂けたことと思います。
 また、グローバル市場主義が「世界平和主義」の名でWWⅡ以前から存在していたことも〔201〕で見てきたところです。このように〔201〕〔202〕で出てきた言葉(用語)は、現在とはニュアンスがやや異なるようですから、その意義について落合の思う所を述べます。
 まず「他力本願」とは、本来の仏教用語では「自分の努力でなく阿弥陀仏の本願によって物事を成就しようとすること」で要するに「他者依存主義」です。
 要するに、行動の目的を自身が持たず、また意義を自身が考えず「特定の勢力」に任せる生き方を言うわけですが、周蔵のいう「他力本願」は「状況の変化に逆らわず、成り行きに任せる」との意味で、行動には目的があるが自ら動かず、「状況の流れに逆らわない」生き方をいうのです。
 上原勇作の個人付き特務となった周蔵は、従来他力本願で生きてきたわけですが、他力本願ならばそれなりに自分が頼るべき「他力」を選ばねばならない、つまり自分の思想に適合する「他力」を選ぶべきだ、と気づいたわけですな。
 これで落合が思い出したのは、サラリーマン時代です。
 大学時代の落合には人生の目的がなかったのです。復員軍人の子として家業もなく、特にやりたい学問も望む仕事もなかった落合は、高校時代の目標は父親の心底を忖度して「東大へ行く」ことしかなく、それも高二で受けた旺文社の全国模試で上位に入った後はさらに学ぶべき科目もなく、月千円の奨学金で一冊50円の歴史書の古本を買って耽読しました。今も覚えているのは「孫子の兵法]や「有職故実」それに「西洋の没落」(オシュヴァルト・シュペングラー)などです。
 大学でも乱読に明け暮れるうち、気が付けば四年生になっていました。同じ流れの中で就職が決まり、縁あって住友軽金属に入りましたが、三年も名古屋で暮らしていては、日本も世界もまるきり見えず、わが人生はこの先もこんな調子で流れていくのだろう、と思っていました。
 経済企画庁部員として出向せよ、との命令が下ったのは昭和四十三年で、高校入学以来十一年間経っていました。そこで「日本経済」というものに遭遇した落合が「今後の目標ができた」のはその時、と今になって思うのは、「敗戦記」を読んだからです。つまり、周蔵の言から、それまでの十一年がまさに「他力本願」の時代だったことを自覚したからです。
 経済企画庁では調査局部員として、内国調査課長宮崎勇さんの下で『経済白書』の編に携わりましたが、ここで初めて「日本という国」を見ることとなった落合の心中に民族・国益・世界などの概念が生まれました。
 自分の目標は祖国「日本の国益に資する事」と決めたものの、自身ができることは何もなく、誰かに頼ろうにも傾倒したい人物はどこにも見つからず、という状況を認識したままで四十年近い歳月が流れました。荏苒として還暦を迎えんとした時、図らずも國體勢力(高松宮付舎人)との邂逅がありました。
 高松宮妃殿下から、舎人を通じて國體秘事の伝授を受けるに至ったので、自力でこれを解読して後世のために遺そうと考え、駑馬の微力を尽くしながら、今日にいたるわけです。これが、落合が「周蔵が石原莞爾に傾倒した所以を自分は理解できる」と思うわけです。
 二十歳にしてその非凡な才能を見抜いた上原勇作(陸軍中将・陸相)から個人付き諜報員を命ぜられた吉薗周蔵は、国家の命運に関わる数多くの諜報活動に携わりましたが、自身が「他力本願」に流されていたことを悟ったのは昭和十四(1939)年頃で、すでに四十も半ばを過ぎていました。
 「自力本願」に生きるには、それまでに基礎作りが必要です。周蔵ほどの人物ですら、この境地に到達するに半生を費やしたのです。
 話が説教染みてきましたが、日本国民がそれぞれ「自力本願」の誓いを立てることこそ日本のあるべき姿と、落合は考えています。

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