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〔221〕大本教の先端は「創価学会」に変身して大発展   10/2人物の生年・肩書等を訂正

〔221〕大本教の先端は「創価学会」に変身して大発展
   これまで述べたところで、「皇道大本」と「黒龍会」が提携して「昭和神聖会」を創立した事情が一応理解できました。
 一言でいえば、「国際共産主義(トロツキズム)の侵入に対する防波堤を創る」との目的を共有する両者が提携して創立したのが「昭和神聖会」ですが、名称が大本教の下部機関「昭和青年会」を思わせる事と、統管に王仁三郎が就き、その女婿の日出麿が副統管につき、内田良平がもう一人の副統管に甘んじている事からみると「昭和神聖会」を主導した(仕掛けた)のは大本側ということになります。

 言い忘れていましたが、出口王仁三郎が大正十三(1924)年二月十三日、責付出獄(保釈)中にも拘わらず、秘かに綾部を抜け出して蒙古に渡ったのは、義弟(出口ナホの次男)の出口清吉に会うためで、堀川辰吉郎の指示を受けたもの、と落合は聞いております。
 出口清吉は王仁三郎の妻澄スミの兄で、王仁三郎より一歳下の明治五年生まれです。日清戦争の際に台湾で戦病死したとされていましたが、目下蒙古で国事探偵として活動していると聞いた王仁三郎は、それを確認するために蒙古に行ったのです。
 第一次大本事件で逮捕された王仁三郎が、責付出獄(仮釈放)中にも関わらず秘密出国の暴挙を敢行したのは、大本教よりも大きい外力から圧されたからで、堀川辰吉郎の指示を受けたものと落合は聞いております。
 出口清吉の出生について、落合は公開情報とは異なる風聞を耳にしております。この人物は出口ナホの子供ではなく、実は堂上公家、それも「正親町三条実愛の落胤とのことです。
 この伝聞をまるきり信じる訳ではありませんが、中山忠能・中御門経之と並ぶ「幕末の國體三公家」の一人として、幕末維新に際して「戊午の密勅」はじめ宮廷最高の機密に関与した正親町三条実愛は、明治二年に家名を「嵯峨」と変更した後も、國體公家としての秘密国事に携わっていたことは、例えば、孫の嵯峨浩が愛新覚羅溥傑と結婚した事などに照らせば、そんなに不合理や不自然なことでもありません。
 また、紀州熊野の温泉宿の前に、盥に入れられて捨てられていた山本玄峰(のち臨済宗妙心寺派管長)も実は公家の落胤と伝わりますから、清吉の出口戸籍への嵌入も、あり得ぬことではありません。
 また清吉は近衛兵に編入されていますが、一つの郡から名望家の子弟二、三人しか選ばれない近衛兵に、当時貧窮を極めていた出口ナホの息子が編入されたことも不思議です。
 さらなる伝聞は、弱小の時に石鎚山に連れてこられた清吉は、山岳修験に混じり、各種の錬磨・特訓を受けたとのことですから、かれこれ合わせるとむしろ信ずべき話と落合は思います。
 ともかく、出口清吉は日清戦争に出征して台湾で戦病死したことは、当時の公式記録にもあるようですが、実はその後も生きていて、蒙古で特務活動に専心していたのです。

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