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〔126〕ハプスブルク黄金を運んだ周蔵10/2改訂あり

 〔126〕ハプスブルクの黄金をスイスから運んだた周蔵
 前項〔125〕から紹介している「周蔵手記」昭和三年六月中条の続きが、もう少しありますので、下に掲げます。
 
△この間の金塊は「張作霖への支援であろう」と自分は思い、貴志さんを関わらせたのだから、貴志さんも思っている筈。
△貴志さんの話では、一旦満鉄に持って行き、張作霖資金となるも七月か、と言われていた。それまでの間、ロシアから分捕った金塊の収集に歩かれるようなことを云われた。
 
 「この間の金塊」とは、昭和二(1927)年九月に上原勇作の命を受けた周蔵が昭和三(1928)年にスイスとアルザスで受けとってきた金塊です。
 金塊は三十四貫(127・5キロ)あり、今日の相場では十二億円を超えますが、これを人力で運ぶ計画を命じられた周蔵は、若松安太郎(本名堺誠太郎)を同行する了解を上原から得たうえ、「現地では甘粕正彦の協力を得たい」と具申すると、上原は「甘粕は別の口をやっておる。いずれ合流とはなるであろうが」と云います。
 大杉栄事件で下獄していた甘粕は大正十五(1926)年十二月六日に仮出獄していましたが、昭和二年七月に渡仏し、折から留学中の砲兵少佐澄田ライ四郎および砲兵大尉遠藤三郎と合流します。
 澄田中佐は甘粕と陸士同期(士候24期)で遠藤大尉は二期下(士候26期)
ですが、この両人が関東大震災下の「王希天失踪事件」において甘粕大尉の計画実行を強力に援助したのです。
 両人の渡仏は表向きフランス陸大留学ですが、本当の目的が大東社加盟に在る事は云うまでもありません。関東大震災の時に渡仏目前であった澄田は翌大正十三年に渡仏しますが、渡仏が決まっていた遠藤は王希天事件の処理を命じられたことで予定より遅れ、渡仏は大正十五年になります。
 関東大震災の当時、「大東社加盟を目的とする」フランス陸大への留学が決まっていた両名はすでに「大東社員候補」で、だからこそ大東社員としての先任甘粕正彦の要請にしたがい、王希天の偽装殺害に協力したのです。
 憲兵大尉から予備役編入となった甘粕と異なり、澄田・遠藤の両名はのちに陸軍中将まで登りますが、「大東社員としては甘粕より下位」と落合は見ています。王希天の偽装殺害に協力を頼まれた澄田と遠藤が断れなかったのは、その関係があったのでしょう。
 あるいは大東社員の中に「親族社員」と「一般社員」の区別があり、ハプスブルク大公家およびその分派のポンピドー牧師の姻族は、「一般社員」とは別扱いなのかもしれません。
 ちなみに「親族社員」として落合がこれまでに確認したのは、日本人では上原勇作・甘粕正彦・伏見宮博恭王で、いずれもポンピドー牧師の姻族ですが、閑院宮戴仁親王もそのような関係が必ずあります。
 言い忘れるところでしたが荒木貞夫も同様です。ロシア駐在武官のとき、イギリスに連れ出してチャーチルに遭わせた女性です。後年、シベリア黄金を日本に運ぶ荒木に、第二夫人として付添ってきた外国美女がポンピドー牧師の関係であることは言うまでもありません。
 日本人ではないが、その可能性が最も高いのが張学良です。また、宋三姉妹の風貌を父親の宋嘉樹と見比べるに、宋嘉樹にもその可能性があるようです。つまり「三姉妹の母がポンピドーの関係者」と観ることは決して不合理ではありません。

 
 
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