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〔33〕稽古15 命運審察の実例 井口洋と白頭狸兄弟(1)

〔33〕稽古15 命運審察の実例 井口洋と白頭狸兄弟(1)
 弟の突然死に遭遇した白頭狸が、今になって初めて知ったのは、弟が清貧の学究生活を貫いたことです。
 かつてバブルの時代、兜町で「O氏」などと呼ばれ、仕手筋扱いされて浮かれていた狸は、井口家を捨てて落合姓を称した心苦しさから井口ファンドを創ってやろうと考え、弟に申し出た処、拒絶されたので、「浮世離れした文学者が経済を知らぬための偏屈」と憐みながら手を引きました。
 その後のバブル崩壊で白頭狸はスッカラカンになりましたが、あの時に井口ファンドを作っていたなら、それが残ったはずです。
 ところが遺族から聞いた生前話を総合すると、弟がファンド構想を拒否したのは「学究生活を貫くために財に関わりたくなかった」のが根本的理由と知りました。
 それを聞いて狸が納得したのは、井口洋の命運にまさにそれが現れているからです。ここで三月一日の本稿〔31〕の一部を再掲しますが、日干から見た生月支の蔵干は、白頭狸は「偏財」で、井口洋は「劫財」です。
 劫財の性情は、下記の如し。
 独立独行 自我剛毅 破財破壊 小利大損 兄弟身内 朋友知己
 剋夫剋妻 反抗不遜 
 これまさに井口洋の生き方そのもので、これ程見事に当たるものかと感嘆いたしますが、夫婦仲は良かったようなので、右の「剋夫剋妻」だけはさすがに外れたように思う狸は、それでも命理学の価値は否定できないと感じました。ところがこの「剋夫剋妻」もある意味で当たっていたことが後で判りましたので、あとで解説します。
 さて大塔宮護良親王と調月荘井口左近の娘の間に生まれた井口左近(父と同名)を家祖とする紀伊国那賀郡粉河荘井口家の男系男子は、我ら兄弟の父井口幸一郎と弟の井口利彦およびその男系子孫だけになりました。
 離婚して以来孤独生活で家族と連絡が取れない叔父井口利彦の死亡を聞いた狸は、父に代わってその葬儀を行い、井口家代々の菩提寺である寺町通りの日蓮宗法性山本光寺境内の井口家代々の墓にその遺骨を収めました。
 父が平成二十(2008)年に亡くなったので生き残ったのはわれら兄弟だけです。祖父米太郎が國體奉公衆の「草」であったことが狸に伝えられたのは平成八(1996)年のことでした。
 それまで粉河井口家の来歴を全く知らず、岳父に乞われるまま昭和四十七(1972)年に落合家の養子になった白頭狸は、実家の来歴を伝えられて意識が変わりましたが時すでに遅く、亡妻緑との間に儲けた唯一の男子は落合姓を称し、その唯一の男子もこのままでは落合姓を継ぐことになります。
 粉河井口家の血統を継ぐのは、わが子を落合姓に遺したままで取りあえず自身だけ復姓した井口莞爾(白頭狸)と今は敬田院法學日洋居士となった井口洋の兄弟ですが、各々男子が一人しかおらず、白頭狸が弟の跡を追えば残るはかれらだけで、その次の世代も男子は落合姓を称するただ一人しかおりません。
 粉河井口家の由来を知った弟が父祖の菩提寺に眠ることを希望したため、予め本光寺の境内墓地を確保した白頭狸は、この度の弟の葬儀の支援を申し出たところ、未亡人は自治会館とかで無宗教葬を行うといい、遺骨も夫が生前に用意した本光寺墓地に埋葬しない意向を洩らしました。
 葬儀所となる自治会館に有田芳生のポスターが貼られていることを知った時、狸はすべてを察しました。有田は現在の党籍が立憲民主党ですが、父は日本共産党に属する政治家で、芳生本人も除名されるまで日本共産党員だったことから本性が知れます。
 かねがねこの男を紛れもなきトロツキストとみている狸は、そのポスターが張られた自治会施設で無宗教の葬儀を執行されることが、泉下の弟にとっていかにも悔しいことと察しました。導師もなく戒名も貰えず共同墓地であたかも無縁仏のように葬られてしまう虞れが高まりました。
 江戸文学を専門とし西鶴・芭蕉・近松の研究で生涯を尽くした弟が日本の伝統を軽視するわけもなく、佛教を離脱することなど論外というしかありません。
 生前に交わした会話でも生誕の地和歌山城下の法性山本光寺の檀家墓地で永眠する希望を伝えてきた故人にとって、未亡人が採った措置は明らかに反逆です。
 弟の命運を審察した狸は、日干と月支の関係に顕れた「剋夫剋妻」に戸惑いましたが、未亡人の意向を知るに及んで「剋夫剋妻」の意味するところを理解できたのですから、やはり四柱推命は恐るべきものです。 

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