見出し画像

張作霖問題(5)1/13

〔116〕國體は和傘の構造に似る
 いったん収拾しましたが、もう少し脱線を広げて、先に述べた國體の図解を致します。下記の図は平成二十七(2015)年に成甲書房から発刊した拙著『日本教の聖者・西郷隆盛と天皇制社会主義』の27頁に掲載したものです。その説明の前に同著の26頁から始まるその一部をそのまま以下に転載します。
 
 国家社会の治安を維持するために必須な警察機能・軍事機能のことを、政治学用語として「暴力装置」と呼び、これを統率する職として、行政トップのオホオミ(大臣)とは別に存在していたのがオホムラジ(大連)で、二十一代雄略天皇の御宇に大伴室屋と物部目が初めて任じます。
  二人の大連は、その姓の意味する通り大伴氏(伴=付き人)が兵員を担当し、物部氏(物=武器)が兵器を担当したと説明されており、戦前の帝国陸軍を参謀総長と陸軍大臣が分掌したのと同じようなものです。
 
〔今回の改訂〕
 右に述べた解説は七年も前のもので、当時は白頭狸の理解がいまだ行き届かず、このような解説になってしまいましたが、ここで最新の理解によって訂正します。

 まずオミとムラジについて、ムラジは天孫降臨に際し天孫族に随従して天下ってきたいわゆる「天津神」の子孫すなわち天神族が許されたカバネで、オミは天孫族すなわちアマテラスの子孫の内、俗に「欠史八代」と呼ばれる第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの八人の天皇の子孫が唱えるカバネです。
 高校で学んだ時、日本史の岡本先生は両者の違いを教えてくれず、その後も折に触れて悩んできた狸は、数年前に鳥越憲三郎氏の著書で初めて、右の事を知りました。
 日本史学者ならば誰でも気が付くはずのこのことを、戦前の歴史教育はどのように説明していたのか未詳ですが、戦後になって鳥越氏を除くどの史家もこれについて語らなかったのはなぜか?
 最大の理由は「欠史八代」の実在を疑問視した津田左右吉の誤った学説が、戦後の学者によってさらに歪曲されて、欠史八代どころかその後の崇神王朝不在説から、さらに後の応神天皇不在説まで拡大したので、欠史八代の存在を前提とする日本書紀の記事と、これに従う鳥越憲三郎氏の学説を意図的に排除したのです。
 ところが歴史のなかで存在感が傑出する蘇我大臣と物部大連・大伴大連はさすがに抹消できず、わけのわからぬ説明のまま今日までやり過ごしてきたのが戦後の日本史学界なのですが、これにより悪性の捏造史実が発生しました。
 それが渡来人説で、数多いオミの祖先をすべて半島渡来人にしてしまったのです。ヤマト政権の時代には北九州の安曇族は言うまでもなく、奈良盆地にいたヤマト王朝からも、大勢が朝鮮半島に渡り大陸の文物を学んで帰朝しました。田邊史らがそれで帰朝して朝廷からオミの姓を賜りますが、出生地が半島なので「蕃別の臣」とされました。
 戦後の史学は半島優越の悔日史観に立ち、ヤマトから大勢が半島に進出して任那軍政を敷いた事実を自ら否定する有様ですから、「蕃別のオミ」のことを渡来人とみたのは当然です。
 欠史八代ないし欠史十五代の天皇の実在を否定することで国史からヤマト王権の時代を切り取り、蕃別の臣を渡来人視することで、ヤマト民族のうちの半島進出人をきり剥がしたのが、戦後の学校史観で、これに基づき歴史教科書が編纂され、メデイアの報道もこれを基準にして行われています。
 このような歴史歪曲が何のためになされてきたのか。言うまでもなく国際共産主義の世界征服の一環として日本を隷下に置くための思想教育として行われてきたのです。
 サンフランシスコ条約の発効後日本を間接支配してきたアメリカの国際共産主義者の強請にしたがった日本政府が左翼系歴史学者に造らせた歪曲歴史を文部省・教育委員会が学校教育に採用し、NHKなどの情報機関に広報させてきたのです。(続く)


いただいたサポートはクリエイター活動の励みになります。