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越智経企庁長官とイザナミ越え景気9/7

〔49〕越智道雄経企庁長官と「イザナミ超え景気」
 平成三年秋の頃、経済企画庁調整局長として越智道雄長官に仕えた吉富勝氏は「バブル景気」の存続期間が昭和四十(一九六五)年十月から同四十五(一九七〇)年七月まで続いた「イザナミ景気」の五七カ月を超えたか、いう問題にとらわれることとなった。
 昭和六十一(一九八六)年十一月から始まった「バブル景気」は、もし平成三(一九九一)年八月まで上昇が続いたならば「イザナミ景気」とタイ記録になり、さらに続けば「イザナミ越え」となる状況であった。
 ときの経企庁長官越智道雄は福田赳夫の女婿で、大蔵大臣として「イザナミ景気」を宣言した岳父を意識して、自分が「イザナミ越え」を宣言することを望んでいたのである。
 ところが景気判断の目安とする景気動向指数(一致指数)が、平成三(一九九一)の四月から六月まで三カ月連続で五〇%を割ることが目に見えていて、「景気が後退局面に入った」との判断を観測者に迫っていた。この分では八月の「イザナミ越え」はありえない。
 越智長官は「景気動向指標の動向に納得できない」として「景気動向指数の構成指標を見直せ」との指示を出した。景気動向指数は鉱工業生産指数など複数の経済指標を組み合わせて算出するが、その構成指標は経済実態を正確に反映するため、数年に一度入れ替えられる。
 「構成指標を入れ替えれば三か月連続の五〇%割れはなくなるかも」との期待が越智長官の心中にあったと推察されるが、構成指標にはとくに不都合な動きはなかったという。結局バブル景気の終焉は平成三年二月で、上昇期間は五一カ月ということになった。
 因みに、わたしがバブルの終焉を覚った時季を、前稿で「秋風が吹き始めたころ」と書いたのは、その時の「輪一」の店内の光景が今も目に浮かぶからだが、右の事実からすれば、七月だったのかもしれない。
 バブル景気の崩壊で日本経済に深刻な問題が発生することは誰でも予想するが、現実にバブル崩壊が表面に出たのは数年後のことで、当初は一時的な景気後退として楽観論が大勢を占めていた。
 バブル終焉から九か月後の平成三(一九九一)年十一月に海部俊樹の後継首相となった宮澤喜一は、公的資金投入による早期の不良債権処理を考えたが、マスコミ・官庁・銀行・産業界からの強い反対のため、実行に移せなかった。
 宮沢内閣は平成五(一九九三)年八月まで続いたが、記憶に在るのは四年の春ころに、自由民主党総務会長の水野清氏と電話で話したことである。
 と言っても直接でなく、当時フィクサーとして注目を浴びていた荒井三ノ進氏が宮沢喜一首相の使いという口上でまず訪ねて来たあとを受けてやってきた衆院議員浅野勝人氏が、わたしとの会談中に電話で呼び出したのが衆院議員水野清氏であった。
 水野氏は「多忙でお会いできないが」と前置きしながら何か云われた。荒井・浅野という知名人を介しての水野氏の要請は「宮沢政権の経済政策策定に協力せよ」との趣旨らしかったが、内容を覚えていないのはすこぶる曖昧で具体性を欠くと感じたからである。
 具体的な話を持ちかけてこない浅野勝人氏を揺さぶるため、わたしは易占の話をして様子を見たが浅野氏は載ってこず、よって具体的な招聘話が出ることもなく、それきりになった。
 一つ覚えているのは、荒井氏が「わたしは本来中曽根の下だが派遣されて宮沢派を支援している」と語ったことである。数年後にこの招聘話の背景が判ったのは、荒井氏の口上がヒントになったのである。


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