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大室寅助が選ばれた理由4

〔4〕大室寅助が選ばれた理由 令和四年六月十一日改訂
 承前
 右のごとき経緯で始まった光格王朝は、仁孝天皇を経て孝明天皇に至り大政奉還により明治維新を迎えるが、これもとよりワンワールド國體が建てた一大計画たる「堀川政略」の一部である。
 さて、しばしば「國體天皇」という言葉を用いるわたしが、その度に忸怩たる思いがあるのは、國體ではそれに該当する地位、すなわち総覧者に正式名称が存在しないからである。
 国家社会の双分制、すなわち政体首長としての天皇と國體を総覧する天皇が別の人格であることは、すでに欠史八代(二代綏靖から九代孝霊まで)の皇統系図からも窺えるから、これを人類本然の姿と観て
然るべきであろう。
 眼前の社会の運営に任ずる政体の機能は法律によって整序さるべきで職能分担・命令系統などを律令によって規定するが、社会運行の調整を旨とする國體は臨機応変に対処し、実行計画は過去の成功例を基準として建てるという。
 さて後醍醐天皇と後伏見天皇が双生児だったことは皇室最大の厳秘事項で、わたしが初めて明らかにするが、ここに始まる南北朝と欧州國體の真相は余りにも複雑であるから、拙著『日本皇統が創めたハプスブルク大公家』三四二頁から三五二頁を参照して頂きたい。ただし〔3〕で述べたように三四二~三四三頁の表は誤っていて、後醍醐天皇の皇子たる後村上天皇と懐良親王を後醍醐天皇の弟としているからご注意願いたい。
 これで判るように、伏見宮三代(実質は初代)の貞成親王(1372~1456)の第一皇子彦仁親王が即位して御花園天皇となり、同時に第二皇子貞常親王が永世親王伏見宮を継いで國體天皇ともいうべき地位に就き、以後幕末の伏見宮邦家親王まで伏見宮の当代が國體を総覧していたのである。
 伏見宮の代々が任じていた國體首脳の一角に閑院宮系が加わるのは仁孝天皇の代である。閑院宮皇統はドイツ(ベルギー)から来た直仁親王を太祖とし、典仁親王(慶光院太政天皇)→光格→仁孝→孝明と続く。
 仁孝天皇(一八〇〇~一八四六?)には実は長仁親王という弟がいた(八条宮長仁親王とは別人)。つまり孝明天皇の叔父であるが、この方が清華の中山忠尹家に背乗りして中山忠頼(一七七八~一八二五)を称したことはこれまで厳秘とされてきた。それを初めて明かしたのが拙著『天皇と黄金ファンド』(平成二十八年成功書房刊)で、その二八頁以降に詳細を述べたのでここは略するが、忠頼=長仁親王の子中山忠能(1809~1888)が「堀川政略」という世界史的な大仕事を達成し、大政奉還を見事達成したのである。
 長仁親王の子で孝明の従兄にあたる忠能が清華家として権大納言となり摂家の下風に立つのは、もとより予定の行動で、五摂家はいわば忠能を隠蔽する役割を与えられたのである。
 孝明天皇の典侍として皇太子睦仁親王の生母となられた中山慶子は忠能の娘であるから、光格皇統に属する「いとこ違い」の男女の間にできた睦仁親王すなわち堀川殿が伏見宮邦家親王の國體棟梁の座を継いだことにより、國體天皇は閑院宮系に移ったのである。(続く)

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