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金と銀とコメ3 8/30

 〔38ノ2〕金銀貨とコメ3 
 吉宗が行った元文の幣制改革は当時の日本のGDPの規模に等しい通貨を供給したリフレ政策として、まことに適切な通貨政策であった。
 当初は元禄金発行の時と同様、新貨と旧貨を無差別に同時通用させようとしたがムリと判り、元文新金一六五両と慶長金・享保金一〇〇両を交換した。これはかつて元禄金二両と交換した享保金一両を、この度は八二・五%の増歩で引き取ったことになり利益を挙げた幕府は、品位が元禄金の八三%(後掲表参照)しかない元文金の一〇五両を元禄金百両と交換したことでも利益が上がったのである。
 慶長から元文まで慶長・元禄・宝永・正徳・享保・元文と五種類の小判が発行された。いずれも素材は金銀の合金であるが、以下ではそれぞれが含有する金銀量と、銀を金に換算して加えた合算金量を掲げる。ただし金銀比価を一対一五・八とした換算した。

      W  G   S  SG   G+SG 
 名称  重量  金量  銀量 金換算 合算金量  慶長金比
慶長  17・73 15・19 2・54 0・16  15・35   100
 元禄  17・81 10・04 7・77 0・49  10・53   68・6
 宝永  9・34  7・79 1・55 0・01   7・8   50・8
 正徳  17・72 15・19 2・53 0・16  15・35   100
 享保  17・78 15・31 2・47 0・16  15・47   100・8
 元文  13・0  8・49 4・51 0・29   8・78   57・2

 慶長金・正徳金・享保金は重量・金品位および合算金量がほとんど同じである。つまり新井白石の発行した正徳金の性格は、荻原重秀が改鋳した元禄金・宝永金を旧の慶長金の品位に戻すための復古金であったが、それをそのまま踏襲したのが享保金である。
 これからすると史家は、白石の政策を踏襲した吉宗が白石を執拗に排斥した真の理由を国民に説明しなければならないのだが、今に至るもそれができないのは、國體の存在を知らないからである。
 新井白石も徳川吉宗も、ともに伏見殿から幕府に送りこまれた國體衆で、いわば同志であった。その吉宗が新井白石を誹謗排斥したのは全くくもって吉宗らしくないが、これこそ國體衆の秘密を隠蔽するための芝居と観るべきであろう。
 そもそも元禄金は、重量を慶長金に似せながら金銀を合算した品位を慶長金の七割以下に落したものである。荻原重秀の改鋳は金一両が含む金量を減らすことで三割強の出目(改鋳益)を狙ったものだが、比重が金の二〇に対して銀は一〇だから銀の比率が高いと合成比重は下がる。つまり小判の重量は同じでも嵩が増えるし、表面積を同じにすれば厚みが増すから、世人は違和感を抱くのである。
 これと反対に品位を慶長金に戻しながら重量を五割強に落した小型版が宝永金である。元禄金を宝永金に吹き替えた幕府は二六%の改鋳益を得たが、二度の吹き替えが重なった宝永金の(銀を合算した)金量は慶長金の四九%にまで落ちた。
 要するに荻原重秀の行った元禄・宝永の幣制改革は、金貨一両の品位(金銀比を一対一五・八で金に換算して合算)を慶長金の五、六割にまで引き下げたものである。
 宝永金は元禄金と等価通用とし、慶長金には宝永金一両に銀十匁を付けて慶長金一両と交換したが、どちらも交換者側にかなりの損が出ることから、各藩や豪商ら慶長金保有者が退蔵の動きを見せたのは当然である。
 荻原幣制は極端な金(両)安デノミを実行したわけで、リフレを通り越してインフレを起こしたが、これは当時の社会背景――すなわち御取り潰しにあった諸藩の扶持を失った多数の牢人が世にひしめき合う社会不安――に対応したものであった。リフレもインフレも社会に流通する貨幣信用の総量を増大させることで商業を刺激して取引を拡大させ、あるいは新規に起業させることで、雇用を増加させることを狙ったのである。
 新井白石の「正徳の治」はインフレ小判の元禄・宝永金を慶長金の品位に戻した正徳金の発行により貨幣価値を慶長金と同等に復元し、元禄バブルの終焉を図ったものであったが、吉宗の享保金も正徳金とほとんど同品位(同質同量)であった。
 つまり「享保の改革」は、幣制では「正徳の治」をそのまま踏襲した「金(両)高政策」であったが、その二二年後に同じ吉宗が行った元文の幣制改革は、前表でみるように一両の品位を五七%にで切り下げたデノミ策で、これにより当時のGDPの規模に相応しい通貨を供給したのは、まさに適切な通貨政策であった。
 ここまでくれば諸兄姉は、白頭狸が本稿を思い立った主旨をご理解いただけえると思う。白頭狸は今日の日本が直面する大問題すなわちアベノミクスの主柱としての円安ドル高政策と、これを強行してきた日銀総裁黒田東彦の「異次元の金融緩和」の正体と、それからの脱却について考究しており、そのため江戸時代にまで遡って通貨問題の本質を探っているのである。

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