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〔201〕神薬「国體アヘン」の統括者・堤哲長

〔201〕神薬國體アヘンの統括者・堤哲長
 吉薗周蔵は真に貴重な歴史資料としての「周蔵手記」をわれわれに遺してくれました。
 「周蔵手記」は大正元年に周蔵が時の陸軍大臣・陸軍中将の上原勇作(旧3期)から「草」を命じられたことに始まりますが、その奥底には正三位右衛門頭の公家堤哲長の孫という出自があったのです。
 維新政府の輔相として政体首脳となった岩倉具視とまさに好一対をなす、堀川御所の総支配人兼國體参謀長の堤哲長の孫という立場が周蔵を支えたのです。
 その証拠は、都城中学中退の一介の青年吉薗周蔵の周囲に、藤根大庭(水沢キリシタンの頭)、若松安太郎こと堺誠太郎(七代目堺屋甚兵衛)、牧野三尹(牧野天真堂医院長)、布施一(警視庁特高課雇)ら、巷間めったに見ない人材が蝟集してきたことです。
 これらの人材を周蔵にあてがったのは、実は祖母のギンヅルです。幼少時にあらゆる教養を身に着けたギンヅルは、京都に上り薩摩藩邸に奉公して、女中頭になったほどの才女です。
 薩摩屋敷に屯する下級武士たちの面倒を、女中頭として見てやったギンヅルは、のちに維新政府および陸海軍の首脳になった薩摩藩士とはごく親しい間柄で、中でも後の首相になる海軍大将山本権兵衛とは、姉と弟のような関係にありました。陸軍では日清・日露両戦役の準備を陸軍大臣として行った陸軍中将高島鞆之助とギンヅルは、あたかも一体のごとく行動していたのです。
 ギンヅルの立場が強力なのは、これだけでも分かりますが、さらにその奥に「國體参謀長堤哲長の秘密代理人」という立場があったのです。
 前述したように哲長はすでに偽装薨去していますが、そもそも哲長は生前から國體公家として隠密の役割を担っていましたから、ギンヅルも哲長を表看板とはせず、哲長の内意を自分の意思として発言していたのです。それだけで周囲を動かせるだけの実力があったわけです。
 「周蔵手記」によれば、大正時代のギンヅルは高島鞆之助、上原勇作のほか薩摩在住の事業家日高尚剛と組んでいたことが分かります。諸兄姉は、これで吉薗周蔵の立場がご理解いただけたと思います。
 落合が吉薗明子さんから依頼されて画家佐伯祐三の研究を始めたのは、平成八(1996)年のことで、今から三十年近く昔の事です。
 当時の問題は吉薗家所有の佐伯祐三絵画の真贋でしたが、鑑定に当たった美術史家たちの頼りない言動は拙著『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真相』に書いております。
 その際に(名前を聞いていませんが)美術史家と新聞記者らが数人中曽根康弘元首相に会い、佐伯絵画に関する落合の「ニューリーダー」の連載を止めてほしい、と陳情したそうです。
 「吉薗周蔵なんて聞いたこともない。こんなものを持ち出しtきた落合はペテン師です」などと云った彼らが驚いたのは、中曽根元総理が次のように返答したからです。
 「ニューリーダーのあの連載はわたしも読んでいるが、そもそも大正時代の事を君たちは反証できるのか? それに吉薗周蔵の名前はわたしも知っている」と云われ、「吉薗とはどんな人ですか?」と尋ねたところ、「笹川良一が唯一恐れた人物だ」と答えに、驚いた一同はそのまま帰ってきた、との事です。
 世の中には周蔵のような隠れた重要人物がいるのですが、周蔵を理解するには、何よりも祖父堤哲長の真相と、その背後の國體勢力の存在を知らねばなりません。つまり世の中は何事にもオモテとウラがあり、オモテの知識だけで生きるのはほんとの人生でありません。
 このことを三十年前に勘づいた落合は、以後の人生を國體の研究に投じたまま今日に至りました。
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