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令和の天璋院は高市早苗 10/18

〔73〕令和四年10月18日 時事雑感 令和の天璋院
 十三代将軍徳川家定は十二代将軍徳川家慶の四男で、祖父は大御所と呼ばれた十一代将軍徳川家斉(一橋家)である。
 久邇宮朝彦親王と同じ文政七(一八二四)年生まれの家定は、三人の兄が早世したことから家慶の跡を継ぐが、生来病弱で脳性麻痺を病んでいたため、家慶は一橋慶喜(水戸家)に後継させたかったが、側近の諫言にしたがい家定を選んだと伝わる。
 料理が趣味で「芋公方」と呼ばれた柔弱な性格で、将軍として全く機能しえない家定に代り政務を執ったのは老中安倍正弘と堀田正睦であった。
 正室として迎えた摂家の姫がいずれも早世したあと、家定が迎えた近衛敬子は、今泉島津家の娘篤姫で島津斉彬の養女に入り、さらに近衛家の養女となったとされている。
 この他の家定の事績は巷間の史書に説明があり、ここで詳述するまでもないが、あまり知られていない重要な秘話がある。
 まず篤姫の出自である。白頭狸が受けた國體秘史伝授によると、天保六(一八三五)年生まれの篤姫は伏見宮の十六女適子(カネコ)女王とのことであるが、貞敬親王の十六女は天保元年生まれの直子女王で明治二十五年まで生存、邦家親王は明治二年生まれで夭折した萬千宮が十五女で、その後は御子を儲けていない。
 子沢山で知られるこの父子の家系にかなりの工作が為されているのは慥かなので、これ以上深入りしないが、ともかく篤姫の本当の出自は伏見殿ということである。
 ともかく家定よりも正室篤姫の事績が幕末工程を進めたことは近代史上で最も重要な事実である。家定の正室として将軍継嗣の選定に最も力があった篤姫は、家定の台命を騙って強引に大老に就けた井伊直弼に幕政を執行せしめ、将軍家定の継嗣候補として最も有力であった一橋慶喜を排して紀州慶福と定めた。
 幕末工程の根底となった「安政の大獄」は、形式上は将軍家定が命令したものであるが、実際は大老井伊直弼が行ったことを疑う人はいない。安政五年七月五日、将軍家定は尾州侯徳川慶勝・越前侯松平春嶽・水戸侯徳川斉昭・一橋家徳川慶喜らを登城禁止や謹慎処分に付す台命を発したが、これも篤姫と井伊大老が行ったと見なければならない。

 安政の大獄の直後に将軍家定は薨去するが、この時家定の急死を怪しむ者が多く、奥女中の日記にも一橋家による暗殺説が語られているが、事実は篤姫と井伊直弼が謀った偽装薨去で、本人も異存はなく、その後はどこかに隠居したものと聞く。後は井伊大老が定めた紀州慶福が十四代将軍家茂となり未亡人篤姫は天璋院を称するが、薩摩から帰藩の呼びかけに応じなかったのは当然である。
 これら一連の政治工作を進めたのは伏見宮で、そもそも名和氏から出た直弼を井伊家に入れた処から始まる。井伊家を継ぐにあたり伏見宮邦家・朝彦の前で誓約した直弼は、まさに命がけで大老職に就き、家定の偽装薨去と紀州慶福(家茂)の十四代将軍襲職を実行した。安政の大獄で水戸斉昭を謹慎に追い込んだのはもちろん八百長で、隠し玉の一橋慶喜が謹慎を装って入京し、同じく偽装謹慎中の尹宮朝彦親王と談合して明治維新に至る筋道をつけたのである。
 一橋慶喜と尹宮朝彦親王が建てた「一尹政権」が権大納言中山忠能と連携しながら、江戸幕閣を動かしていたのが幕末の実情である。ちなみに中山忠能は、実は仁孝天皇の実弟で孝明天皇の実叔父であった。
 孝明天皇の皇妹和宮親子内親王が文久二(一八六二)年に将軍家茂に降嫁するのも幕末工程の一環で、伏見宮から家定へ輿入れし、閑院宮系から家茂へと降嫁したのは、明治維新への工程を裏から操作しやすくするためであった。
 これから始まる令和維新に際し多大な政治力の発揮を期待される高市早苗女史の今後の路線を推察してみたいが、このたぐいは口に出すと破れるものでから、しばらく胸底に留めることとする。


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