見出し画像

満漢分離の前捌きをした李鴻章 12/3

〔98〕満漢分離の前捌きをした李鴻章
 辛亥革命は、先帝に先立たれた隆裕皇后が革命軍の討伐を中止させたことで成功した。つまり宣統皇帝溥儀が退位したことで、満漢結合帝國たる大清帝国が分裂し漢族国家の中華民国が誕生したのであるが、同時に満族国家が誕生しなかったことは、今思っても奇怪な事態である。
 本来、残留希望者を北京に遺してその他は全員満洲に引き揚げるのが当然の満族が、ほとんど北京の地を離れなかったのはなぜか。
 むろん満洲族全員が引き揚げた場合、満洲にはそれを入れる余地が少なかったこともあろうが、なにしろ革命下のことで、満洲に蟠踞する漢族移民の全部または一部を中華民国政府の実力行使で強制帰国させることなどに政治的困難はなかったはずである。
 それをしないで北京に残留した満洲族は、新生中華民国で少数民族の満族とされることになり、両民族の関係は「満漢平等」から正反対の「漢主満従」の関係へ移行したのだが、その背景は何であったか。 
 結局、満洲族の北京滞留と漢族の満洲蟠踞が継続した理由は、愛新覚羅氏の予想を超えて満洲に流入した漢族移民の人口を反映したのではなく、満洲族の統領としての醇親王の意志と観るべきものと思われるが、これが実はワンワールド國體の方針を受けたものと、白頭狸は考えるのである。
 本稿がこれまで述べてきた醇親王とは初代醇親王奕譞の五男載灃のことである。奕譞の次男載湉が光緒帝になったので、異母弟の載灃が世襲を許され二代目醇親王となった。
 西太后は第九代咸豊帝の側室で、咸豊帝の夭折後、実子が第十代同治帝に就いたことで宮廷の最高実力者となるが、同治帝が夭折したので、第八代道光帝の七男奕譞の子と西太后の妹の間に生まれた載湉を帝位に就けて第十一代光緒帝とした。
 世襲を許されて第二代醇親王となった載灃は、父と同様に西太后の信任を得て、義和団の乱(一九〇〇)年で生じたドイツ公使殺害に関し、謝罪使としてドイツへ派遣される。
 光緒三十四(一九〇八=明治四十一)年に兄光緒帝が崩御した後を継いで第十二代宣統帝となったのが載灃の子の溥儀である。
 第二代醇親王はわが子の宣統皇帝を輔佐する摂政監国王となり、宮廷の全権を掌握したのち、かつて兄光緒帝を裏切って「戊戌変法」を崩壊させた袁世凱を解任する。
 辛亥革命の際、先帝の未亡人として愛新覚羅の家長的立場にあった隆裕皇太后が、北洋軍閥の長として宮廷を護っていた袁世凱に革命党との停戦を命じ清朝の廃絶を宣言したので、清朝帝室の中心であった醇親王は失脚することとなった。
 俗説は隆裕皇太后が袁世凱に全権を譲るよう醇親王に命じたとされるが、 伯母の西太后とは違い気弱な性格の隆裕皇太后が廃朝宣言のごとき重大事を決定したとは思われず、この廃朝宣言は清朝帝室の中心であった監国摂政王醇親王の意向にしたがったものと観るべきである。
 つまり清朝廃絶を実質的に決定したのは醇親王で、その結果として溥儀の大清皇帝退位と自らの監国摂政王辞任が生じたのである。
 この流れを見ると、わが明治維新とよく似ている。それぞれの家系的関係と果たした役割は多少異なるが、醇親王が十五代将軍徳川慶喜、宣統帝溥儀が十四代将軍徳川家茂で、隆裕皇太后が十三代将軍徳川家定の未亡人天璋院篤子となる。
 清朝を徳川幕府に喩えた以上、清朝最後の忠臣袁世凱に対応する人物は会津侯松平容保になるが、維新の実行工程を始めたのは十年前の安政五(一八五八)年に大老となった井伊直弼(一八一五~?)である。
 清朝でこれに相当する人物が李鴻章(一八二三~一九〇)である。清朝末から民国にかけて満漢分離策に関与した重要人物は満洲側は西太后と醇親王、漢族側は李鴻章と孫文がそれぞれの陣営の中核である。
 両当事者の背後にワンワールド國體がいたのは謂うまでもないが、大東社の極東本部玄洋社の総帥杉山茂丸と國體天皇堀川辰吉郎がそれであった。この六人に焦点を当てれば辛亥革命の本質が見えてくるのだが、これを行った史家、評論家はこれまでに存在しない。
 従来の史観は辛亥革命を「支那本部の支配をあくまでも継続せんとする愛新覚羅氏と満洲族の支配から脱することを願う漢族の戦い」と説いてきたが、まったく正鵠を得ていない。
 たびたび述べたように辛亥革命は「満漢分離」を目的とすることで完全に一致した愛新覚羅氏と孫文革命党の談合により生じたもので、背景にワールド國體の意向があったことは言うまでもない。辛亥革命における國體の立場は「支持者」というより「指示者」と言った方が適切である。
 (続く)

いただいたサポートはクリエイター活動の励みになります。