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過剰流動性の発生 9/2

〔45〕過剰流動性の発生
 昭和六十(一九八五)年十月のプラザ合意と翌年四月のチェルノヴイリ原発事故は、実は対発生したのである。したがって、プラザ合意により外為相場を円高ドル安に導く責任を引き受けて金融緩和を進めた大蔵大臣竹下登と、チェルノヴイリ原発事故を契機にペレストロイカを断行したミハエル・ゴルバチョフも対発生したと見なければならない。そしてチェルノヴイリ原発事故に「天意」を感じるのは良いが、これを単なる偶然と観ているようでは洞察史観を遠ざかること何光年というほかないのである。
 日本経済が高度成長のピークに達したのを、わたしが昭和四十三年度と覚えているのは、その年度の経済を分析した『経済白書』の作成に携わったからである。昭和四十三年度のGDP成長率は一二%を超え、八年前の神武景気を抜いたのでイザナミ景気と呼ばれたが、人口が初めて一億人を超えたのもこの年であった。
 昭和四十五年の秋に住友軽金属に復社したわたしは、伸銅商務課に配属されて伸銅品のマーケッティングに携わっていたが、生産設備によって決定的に束縛される製造業の運命と狭隘なビジネス感覚に嫌気がさしていた。
 しかも耐え難かったのは、大口顧客との価格交渉で常に弱気に偏り、劣勢に立つわが社の営業姿勢である。ベトナム戦争の影響を受けてロンドン市場の銅価格が暴騰暴落を繰り返すことにより販売価格が毎月変動するわが商品の売り先は、弱電・重電・電力・造船などの巨大企業で、各社はコストダウンに邁進しながら仕入れ価格の安定を求めてくる。
 これに対しわが伸銅品業界は、談合によりそれぞれの納入先と納入価格を協定していたが、製造業の利益を決めるのは販売価格だけでなく工場稼働率も重要な要因であるから、協定破りをしてでも注文を掻っ攫おうとの意向が営業部員の心中に生じるのは必定である。他の営業部員は知らないが、少なくともわたし自身はそのように感じた。
 そのような局地戦に明け暮れする日常は、経済企画庁で考えていたわが社の将来や自分のあるべき役割とは、まさに氷炭相容れざるものが在った。おまけに、すでに経営破綻していた小長谷金属という特約店に出向を命ぜられて営業部長に就いたが、そこでみた伸銅品業界の経営基盤の脆さに絶望的にならざるを得なかった。
 折も折、東京大学同期の三菱商事社員小野正隆君と日興証券社の日高俊三君が、「大学同期の日銀行員山口泰君と会食するので日本橋の『柘榴』に来い」と言ってきた。経済学部の首席と聞く山口君とはそれまで付き合いがなかったが、小野と日高は親友である。「柘榴」に行くと相客がもう一人いた。野村証券国際部の三国陽夫さんで、大学の一年先輩だが山口くんと親しいらしい。当日のスポンサーと判った三国さんが、宴半ばで「皆さんの内どなたか当社に入社して頂けませんか」と持ち掛けてきたとき、小野はわたしの顔を見て「お前行け」という。転社を促すのである。
 野村証券での面接者は田淵節也専務で、まだ四十代だった。野村の社史を簡単に説明してくれたが、今も覚えているのは、「復員してきたら焼け跡の中で取引所は開いておらず、われわれは闇屋みたいなことまでしてここまで大きくした会社だ。あと二十年は大丈夫だが、その後は保証できんので、キミに大いに働いてもらいたい」との言葉である。その時、人事担当の沢村とかいう常務が陪席していたが、奇妙な感覚に囚われたのは沢村氏の顔が明らかに不機嫌であったことと、「ではウチに来てくれ」と言いながら田淵専務が「社長にもお合わせするように」と沢村氏に命じたときの不承不承の顔つきであった。案の定、田淵専務の命令を沢村常務が無視したようで、純血主義で戦後を繋いできた野村證券の社内に途中入社に対する反感が蟠っていることを悟ったわたしは、入社後は積極的に人の輪を広げていったが、六年後に田淵節也さんが社長に内定したと同時に退社するまで北裏社長の顔をみることはついになかった。

 そのような流れで、わたしが野村証券に途中入社したのは昭和四十七(一九七二)年十月の事であった。おりから過剰流動性という現象が発生し、それまで五〇円台であった鉄鋼株が百五〇円になって人々を驚かせた。転社の挨拶のため経済企画庁へ行くと、日銀から出向していた河内冨美夫さんが転社の理由を問うから、「この滔滔たる直接金融の流れを見ずや。これからは直接金融の世と思うからだ」と応じたら不機嫌になったことを覚えている。

 野村証券の凋落は、田淵社長の跡を継いだ同姓の田淵義久さんが平成三(一九九一)年六月の株主総会で、特定株主への利益供与などについて「大蔵省の了解を受けている」と発言し、これが大蔵省の逆鱗に触れたのを機に始まった。わたしが面接を受けてから実に二十年、まさに大田淵の言が讖をなしたのである。
 

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