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金銀比価と御定相場2 8/31重要改訂

どうもスキが少ないのは判りにくかったらしいので、書き直しました。既読者にはぜひ再読をお願いします。白頭狸 三拝合掌

〔40〕金銀比価と御定相場2
 慶長幣制の御定相場である金一両=五〇匁から計算した金銀比価は九・七である。元禄十三年に御定相場を金一両=銀六〇匁と改めたのは金銀比価を一四・六に引き揚げて国際標準に近づけたのであるが、正徳・享保の改鋳は品位を慶長金に戻しながら御定相場は金一両=銀六〇匁を変えなかった。これは何を意味するか。
 慶長小判一両の重量は一七・七三グラムで金分が〇・八五七だから純金量は一五・一九グラム、銀量は二・五四グラムである。
 一方、享保小判一両の重量は一七・七八グラムで金分が〇・八六一だから純金量は一五・三一グラム、銀量は二・四七グラムである。
 慶長金の金量を〇・一二グラム増やし、銀量を〇・〇七グラム減らしたのが享保金であるが、金銀比価を考えると明らかに高価値の享保金と退蔵されていた慶長金との市場交換は円滑に進んだはずである。
 幕府が発行した金銀の種類は多いが、しだいに金を減らして銀を増やしたから、相互に価値を比較するには基準になる金銀比価を定めねばならないが、欧州における金銀比価は江戸時代を通じておおよそ一五・八とされるから、本稿はこれを用いて銀量を一五・八で割った数値を見做し金量として純金量に加えることとする。
 慶長金の場合、純金量は一五・一九グラムで、これに銀量は二・五四グラムを一五・八で割って加えた見做し金量は一五・三五グラムとなり、享保金は同様にして純金量一五・三一グラムに二・四七/一五・八を加えた見做し金量は一五・四七グラムとなる。
 さて前に計算した通り、金一両=五〇匁の御定相場の根拠となる金銀比価は九・七であったが、リフレとともにデノミを行った元禄小判
では、同時に御定相場を金一両=六〇匁に改訂したことで、金銀比価を一四・六に引き揚げた。
 正徳享保小判はデフレ政策を採り、品位を慶長の水準に戻したが、
御定相場は元禄金銀の金一両=六〇匁を変更しなかったので、拠って立つ金銀比価が、慶長小判とは異なってきた。
正徳享保銀が含む銀分は八〇%で慶長銀と同じだが、一両と同価値とされた銀貨は六〇匁になり、その銀量は六〇×三・七五×〇・八=一八〇グラムであるから、15.19X+2.54Y=180Yを解いて得る一一・六八が正・享保金銀の拠って立つ金銀比価で、元禄金銀の一四・六からするとかなり銀高金安になったが、慶長金銀の九・七には戻らなかった。
 それでは元文改鋳の場合はどうであったか。金一両と銀六〇匁が等価と謂うことは、金の価値をX、銀の価値をYとすれば、元文小判の重量は一三グラム、1匁=三・七五グラムだから
 元文小判          丁銀 
 13(0・653X+0・347Y)=60×3.75×0・46Yが金銀貨の両替方程式であり、両辺を整理した8・489X+4・511Y=103・5Yを解いて得られる金銀比価X/Yは一一・六六となる。これは正徳享保金銀の金銀比価一一・六八と全く同じと言って良いのではないか。
 つまり吉宗が発行した元文金における金銀比価一一・六六は正徳享保金銀の金銀比価と全く同じで、元禄金銀の一四・六から金安銀高に移したことで、当時の世界標準一五・八より遠ざかったのである。
 それでは吉宗がもし世界標準を用いたとしたら、元文金一両に相当する丁銀をいかほどに定めればよかったか、計算してみよう。
 丁銀の増量剤は主として銅だが、その分を計算上で無価値とみなすと、金銀比価の方程式は下記のようになる。

   元文小判          丁銀
 13(0・653+0・347/15・8)=W×3・75×0・46/15・8

 これを解けば、W=八〇・三となる。すなわち金銀比を世界標準の一五・八にするには、御定相場を元文小判一両=丁銀八〇匁に改定すればよかったのである。にもかかわらず御定相場を金一両=銀六〇匁のままとしたのは、銀遣いの上方経済への配慮と思われるが、この時に、日本は幣制を世界標準に合わせる機会を逸したのである。
 尤も一両=六〇匁の御定相場をそのままにしながら金銀比価を世界標準に合わせる手段は他にもあった。それは新丁銀の銀含有率を増やすのである。そこで一両=六〇匁の御定相場のままで、新銀の銀含有率をどのくらいにすればよいか計算してみる

  元文小判           仮想の新銀
 13(0・653+0・347/15・8)=60×3・75×P/15・8
 これを解けばP=0・6164 
 すなわち新銀貨の銀含有率を六一・六四%にまで上げれば金銀比価は世界標準と一致したのである。
 慶長銀で八〇%だった銀含有率を元禄銀で六四%に下げたが、それをさらに四六%にしたのが元文改鋳である。何のことはない、元文改鋳は金貨だけに留め、銀貨は元禄のままにしておけば世界水準に適応したのである。
 にもかかわらず元文銀を発行したことで、本邦貨幣の金銀比価が国際標準より金安銀高の一一・六六となり、国際標準一五・八一との差額に萌した銀貨の暴力通貨性(強制通用性)が、その後は改鋳の度に
大きくなり、銀貨の名目貨幣化が次第に進むこととなった。
 銀貨の名目貨幣化の流れが進み、金銀比価が低落してついに五倍に
まで至った時に安政の開国となり、金銀比価の国際標準一五との矛盾が露呈したのが「幕末の金銀問題」である。
 これが金貨の海外大量流出をもたらすが、井伊大老が登用した天才財務官僚小栗忠順がその災いを転じ、却って福となした。その詳細は拙著『京都ウラ天皇と薩長新政府の暗闘』に述べたから、興味ある方はそれを参照されることを願う。 
 

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