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〔143〕ワンワールド國體の満洲経略の本質

〔143〕ワンワールド國體の満洲経略の本質
 辛亥革命を機に、醇親王が満洲族発祥の故地満洲(清国東三省)の暫定的統治を秘かに張作霖に託したのは、ワンワールド國體の総帥に就いた堀川辰吉郎と合意したものですが、粛親王・恭親王など愛新覚羅氏の中核をなす有力皇族と諮ったものではなかったようです。
 孫文の秘書となって革命運動に顔を出していた堀川辰吉郎が中島比多吉の手引きで紫禁城に入ったのは、もとより孫文が計らったものです。
 ワンワールド國體隷下のチャイニーズ・メイスン「洪幇」で元帥たる洪棍に就いた孫文は、満漢分離を図る西太后と秘かに通じていて、西太后が清朝の後事を託した醇親王との懇親を目的に堀川辰吉郎を紫禁城に送りこんだのです。
 かくして醇親王と兄弟同様の仲になった堀川辰吉郎は、ワンワールド國體の若き棟梁として、肚を合わせて満漢分離の秘策を練ったのです。秘策とは「馬賊の頭目張作霖を養成して奉天の軍政を敷かせ、満漢分離後の満洲の統治を暫く委任する」というもので、その内容を粛親王や恭親王など愛新覚羅氏の他の親王にも洩らさなかったものと思われます。
 落合がその秘密を知るのは、前にも述べたように物証を把握してているからです。

 ようやく機が熟した大正=民国元(1912)辛亥の年に革命が起るや、清帝室は醇親王と衝突して退いていた袁世凱を起用して革命の鎮圧を命じ、わが外務省もこの鎮圧策を支持しますが、これに対し大陸浪人の領袖で北京にいた川島浪速が反対行動を起こし、袁世凱の暗殺や宣統帝の動座を図るものの失敗します。この活動を世に「第一次満蒙独立運動」と呼びます。
 宣統帝溥儀が退位してシナ本土に民主政体が出現しますが、袁世凱と孫文の交渉の結果臨時大統領に就いた孫文を、軍事力で革命党を凌ぐ北洋軍閥の袁世凱が斥けて大統領に就きます。
 西園寺内閣の決定で運動中止を命ぜられた川島は、粛親王の大連生活に関する日本政府の保障を取り付けて引き下がります。
 辛亥革命から五年目の民国=大正五(1916)年に帝政を布いた袁世凱が、自ら洪憲皇帝を称したことで国際的反発を招きます。同時に満洲では粛親王を奉ずる満蒙族の一派とこれに加担した川島浪速ら大陸浪人に関東軍の一部軍人が加担して第二次満蒙独立運動が起ります。世上これを「第二革命」と呼ぶのは辛亥革命を「第一革命」と呼ぶのに呼応したものです。
 つまり宣統帝溥儀を皇帝と仰ぐ同君連合「大清帝国」からシナ本土が独立すると同時に宣統帝溥儀が支那皇帝を退位したことを「支那における革命」と観念して、「第一革命」とか「辛亥革命」と呼ぶのですが、それでは「満蒙独立運動」を「第二革命」と呼ぶ理由は何か?
 これは「辛亥革命の結果は支那本土のみならず満洲にも及んだ」と観る立場で、愛新覚羅氏は満洲でも領主権を喪失した、という見方です。これが果たして正しいかどうかを考えて見ましょう。
 そもそも孫文の企てたシナ革命は「満漢分離」を目的とするもので、大きく見れば満漢双方に利益のあるものですから、満蒙側も根本的に異を唱える理由はなかったのです(最近ネット界隈でよく聞く「日韓断交」と似ていますね)。
 ゆえに奉天総督趙爾巽と直属軍の隊長張作霖が反革命を標榜したのは、孫文の掲げる三民主義の一つ民主主義すなわち「共和政治」を満洲に施行することに反対したのです。

 革命後の北京政府で実権を握った袁世凱が主権者顔をして奉天の趙爾巽と張作霖に政治工作を仕掛けてきますが、これは袁自身のシナ皇帝就任に対する賛意を求めてきただけで奉天側も袁に逆らわずやり過ごしたのです。
 この頃の満洲の状況を白雲荘主人こと中川小十郎は、その著『張作霖』において、次のように語っています。
 
 満洲は清朝発祥の地である。千万年の末までも清朝擁護の特殊地域であると、枕を高くしていた睡りを驚かして、ここにも革命の波が打ち寄せてきた。
 東三省は地理的にのみ止まった観念であった。満洲人は既に圧倒されて。満洲は事実上の漢人の天地であった。この事実を等閑に付していた計算違いは、余りにも甚だしい驚きを朝廷の人に与えた。表面は立派でも、その中味は既に腐敗した西瓜であった。
 満洲から出て来て漢民族を征服したと思った愛新覚羅氏は、いつの間にか根こそぎ漢民族に征服されてしまっていた。目前に火事が消えてしまってから。俺の家は焼けたと気が付いても既に遅かった(中略)。
 ことに満洲旗人の「武士は喰わねど高楊枝」の夢がまだ醒めず、徒に気位ばかり高くて時勢も知らなければ、支那を支配する思潮の動きも知らなかった(後略)。

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