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〔76〕白頭狸の時務随想 佐伯展につき

〔76〕白頭狸の時務随想 佐伯祐三絵画展の見どころ(その一)
 このところ東西で開催された佐伯祐三の展覧会に大勢の観客が押しかけ、メデイアも大々的に報道しています。
 白頭狸の佐伯祐三研究は平成七年の夏に始まりました。知人の大谷満さんからの電話があるまでは、名前しか知らなかった佐伯祐三のことを、折からテレビの「報道特集」が取り上げていました。
 大谷さんが吉薗周蔵の遺児吉薗明子さんと他一人を連れて、白頭狸の麻布十番の落合事務所を訪ねてきたのは平成七年九月十七日のことです。来意は「父の遺産の佐伯祐三絵画が贋作との指摘を受けたので、真贋をハッキリさせてくれないか」というものです。
 周蔵が遺した佐伯絵画が本物であることは吉薗家では自明のことですが、問題は、目下世に流布して高評価を受けている作品が祐三の妻米子が上書きしたもので、作調が吉薗家に遺る祐三の真作とはまるで異なることです。

 「父の遺品を世間に公開したい」のが吉薗明子さんの真意ですが、このままで佐伯祐三の真作として発表すれば、米子の上書品をもてはやす世間やその風潮を煽ってきた美術評論家から、贋作の扱いを受けるのは眼に見えています。
 この間の詳しい経緯は、落合莞爾著『「天才画家」佐伯祐三真贋事件の真実』として平成九年に発表しましたからここでは省きますが、この調査がその後今日まで三十年続く白頭狸の歴史研究の切っ掛けになるとは、夢にも思わなかったのです。

 吉薗さんの調査依頼の真の目的が「白頭狸を歴史研究に誘い込むこと」にあったと、狸が覚ったのはそれから十年以上経っていました。吉薗明子さんの依頼の背後には、狸が思いもよらなかった巨大な勢力の意志があったのです。その意志とは「有史以来一般社会に隠してきた歴史の真実を世に明らかにする」というものです。
 これを実行すれば、社会科学の根本たる世界歴史を根本から転覆させることになります。
 つまり佐伯祐三の絵画の背後を追究していけば、そのような歴史の真相に触れることになるわけで、その役として選ばれたのが、白頭狸こと落合莞爾(現在の本名は井口莞爾、法号は南光院爾應)だったのです。
 この三十年間、バブル時代とは打って変わったカツカツの生活をしながら歴史研究をしてきた狸が、これを宿命と覚ったのは十年前のことです。
 貧乏生活はバブルが崩壊した以上止むを得ませんが、紀州の父と義母が遺してくれた些少の遺産でここまで生き延びることができたのです。

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白頭狸
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