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辛亥革命が引き起こした満洲問題 11/21

〔91〕辛亥革命が引き起こした満蒙問題
 辛亥革命が漢民族にもたらしたものは満洲族の支配からの独立だけでなく、清朝統治下に在ったチベット(蔵)・ウイグル(回)・モンゴル(蒙古)に対する清朝の宗主権を自動的に引き継ぐ形になったが、それだけではない。あろうことか旧主満洲族の故地たる東三省(満洲)の統治権も清朝から引き継ぐこととなったのである。
 これに対し愛新覚羅氏が得たものは中華社会を統治する責任から解放されたほかはほとんどなく、それどころか同胞は帰るべき故地満洲さえ中華本部の辺境扱いで中華民国に組み込まれてしまった。つまり辛亥革命(第一革命)は大清帝国の看板を中華民国に書き換えただけで本来の目的たる満漢分離は実行されなかったのである。
 これがただごとで済むわけはなく、新生中華民国の内外で幾つかの動きが生じる。まず孫文が建てた中華民族臨時政府はまったく機能せず、大総統に就く予定の孫文は、北京一帯を軍事支配する北洋軍閥の総帥袁世凱にその地位を譲るほかなかった。
 そもそも辛亥革命(第一革命)には革命の名に値するとはいい難い面がある。当初清帝室の護衛に任じた北洋軍閥の袁世凱が革命派に通じて清帝室を裏切り、隆裕太后(光緒皇后)を篭絡して全権の委任を受け宣統帝の退位を果たした、とされているからである。
 しかし、当時愛新覚羅家の実質頭首は宣統皇帝の実父醇親王で清帝室の最高実力者であるから、宣統帝退位を決断したのは醇親王が親交中の堀川辰吉郎と諮って決断したのが真相である。つまり、隆裕皇太后の篭絡話などは真相を隠すためのアリバイ作りとみなければならない。
 以上の経緯から、宣統帝退位後の中華本部は、北京を拠点とする袁世凱隷下の北洋軍閥と、江南を拠点とし孫文を代表と仰ぐ南方革命軍が対峙する形となり、南方革命軍を兵力で凌駕した袁世凱が大総統の座を孫文に要求したのである。
 かくして大総統となった袁世凱が帝政移行を決意したのは、個人的欲望もあるが、中華社会を統治するには強圧政治しかないという歴史定理を十分に心得ていたからである。
 革命派が結成した国民党は、孫文が代表になり総理に宋教仁が就くが、民国二年三月に宋が袁世凱の刺客に暗殺され、訪日中の孫文が急遽帰国して袁世凱打倒の第二革命を図るも、結局袁世凱に鎮圧されて第二革命は終了。
 大隈内閣が大正四年一月十八日に袁世凱に突き付けた「対華二十一カ条の要求」が、日本外交の暴挙として民国人の反発を招いたことは世界史上周知の事件であるが、真相は世間に知られていない。
 大隈内閣が袁世凱に突きつけた対華要求の真相は、孫文から「対華二十一カ条の要求」を出すことを要請された大隈が、孫文に協力する主旨でこれに応じたが、厳重に秘されたために真相を知る人はほとんどいないが、孫文の背後はやはり醇親王と堀川辰吉郎で、さればこそ大隈も応じたのである。
 民国=大正四(一九一五)年十二月、袁世凱がついに立君議会制の帝政を宣言すると、南方軍閥(雲南派)が独立を宣言し袁世凱討伐を掲げて挙兵した。袁世凱の帝政復帰は国際社会の反対を招き、日本でも大隈重信内閣が反対したが、その背後に第一革命のときと同じく、堀川辰吉郎=醇親王の意向をみるべきである。
 第一革命の目的たる満漢分離が中途半端に終わったことを遺憾とする孫文は、満漢分離策を本来の軌道に戻すべく日本の力を借りて袁政権の打倒を図り、袁を窮地に追い込むために「対華要求」を突き付けるよう大隈政体に要請したのである。
 まさに「天の逆手を打った」のが「対華要求」であるが、國體が絡む極ごくの秘事のため、國體伝授の対象たる秘事としてこれまで扱われてきたものと思われる。
 民国四年十二月、中華民国から中華帝国に国号を改称した袁世凱は中華帝国皇帝に即位して洪憲皇帝と称し、年号も民国五年を洪憲元年としたが、国際的にすさまじい反発にあう中で大正五年六月六日に急逝する。
 死因について、中矢伸一著『日本を動かした大霊脈』が堀川辰吉郎の「手ノ者」による毒殺と説くのに対し、正確には醇親王の「手ノ者」ではないかと狸は思うが、どちらでも大差はあるまい。
 このあと中華本部は軍閥乱立の状態になり北京政体の首頭が頻繁に交代するが、満洲でも重大な変化が進行していた。それが張作霖の台頭である。

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