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〔133〕張作霖列車爆破事件の真相はイソノカミ

〔133〕張作霖座乗列車爆破事件の真相は「イソノカミ」
 「張作霖座乗列車爆破事件」の真相に関して、従来の「河本大佐犯行説」に止まらず、「偽装死説」に焦点を当てたのが〔132〕です。
 ほかにも「ソ連スパイの犯行説」を挙げましたが、この場合、わが関東軍の行動をどう見るか、ということになります。
 ソ連側は「日本軍の犯行にみせかけた」などと云うておるようですが、その場合、関東軍内にソ連スパイが潜入していたことになります。端的に言えば、河本大佐や東宮大尉にスパイの可能性があるということになりますが、どうですかねえ?

 なお落合は未読ですが、加藤康男著『謎解き「張作霖爆殺事件」』という書物があるようです。落合は本来、情報を得ることに熱心するも、「他人の見解に不用意に染まりたくない」との心情が根強く、あまり他人の著書を読むことはありませんが、この本は取り寄せようかとも思います。結論は、それからですね。
 それはともかく、「フルベッキ写真」に関して、落合の胸中に蟠っているものがありますので、忘れないうちにお伝えします。

フルベッキ写真

実は、「フルベッキ写真」について調べていた落合が心中の疑念にトドメを刺すために、國體舎人に「例の青年武士が大室寅助との説があるが、慶応四年すなわち明治元年九月に寅助は上京した筈ではないか?」と質したところ、帰ってきたのは案に相違して「あの時期の京都はとても寒いが長崎は暖かい」とのことです。
 論理的には「否定」すべきものを、肯定でも否定でもないグレー・ゾーンに置く方法論を「イソノカミ」と呼ぶことを、落合は最近教わりました。
 崇神天皇七年(二世紀末と落合は推定)に物部氏のイカガシコヲが勅命により神刀「フツのミタマ」を祀ったのが石上神宮です。國體秘事伝授によれば、大臣蘇我馬子と大連物部守屋が仏教の受け入れを巡って争った五八七年の「丁未の乱」の後始末のために、石上神宮の神社としての性格を改造したそうです。具体的には、蘇我氏と大伴氏が石上氏を創り、が物部氏を称せしめて神宮運営に当たらせることとなった、とのことです。
 だからこそ石上氏の出自を追及せず、イソノカミにしておくのですが、この事は余程の秘伝らしく落合はこれまで聞いたことも読んだこともありませんが、これを教わって永年の疑念が解けました。

 そもそも、史家の大半がこれまで「軍事氏族」と性格付けしてきた物部氏ですが、その軍事的業績は多少はあるにしても、氏族としての規模からすれば極端に少なく、むしろ祭祀氏族としての大きさが目立ちます。
 嘗て多数の刀剣を蔵し、朝廷の兵器庫とみられる石上神宮が、なぜ物部氏(石上氏)の管理下に置かれていたるか。この疑念を解くために、物部氏は「武器商人」のような職能に任じていた、との推断を答えとした落合も、聖徳太子に弓を引いた一族の末裔に刀剣を預けるなど、なお理解しがたいことがありましたが、イソノカミの秘伝を知ってようやく納得したのです。
 丁未の乱に敗れた物部氏の領地・部民は二等分され、半分は四天王寺に寄進され、残りが物部氏に返還されたのは、物部氏の娘が蘇我馬子の正室で、相続権を主張して容れられたからです。
 物部氏およびその部民が厚く尊崇するのは石切神社ですが、石上神宮に対する尊崇心については、落合はまだ知りません。
 思わず脱線してイソノカミの解説に深入りしてしまいましたが、落合はイソノカミ方式もまた、中観流観法と本質的に通ずるところがある、と考えています。
 ではそろそろ張学良に参りましょう。
 邦人は由来外国人を評価するにあたり、ともすれば「親日か反日か?」を基準に致しますが、普通人ならともかくワンワールド國體レヴェルの人士にこの基準を用いていたら、判断を誤ります。
 正しい基準は「國體奉公衆か否か?」です。張学良はどう見てもワンワールド國體勢力に属することはたしかで、それも単なる國體奉公衆を越えて國體参謀の一人と落合は見ています。

 この点、古野直也さんの張学良観とは大いに異なりますが、古野さんの場合も、『張家三代の興亡』で唱えるのは表向きの張学良観の可能性が高く、これを以て張学良を判断してはならないことは、このnoteの既述箇所で、諸兄姉にはお分かりの筈です。
 
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