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篤姫と和子内親王の御事績 10/24

〔74〕令和四年10月24日 時事雑感
 十三代将軍徳川家定の御簾中となった篤姫(のち天璋院)が、家定の権威を翳して大老に就けた井伊直弼を操って「安政の大獄」を起し一気に幕末現象を進めたことを〔73〕に書いたが、同じく維新の推進に尽くしたのが十四代家茂の御簾中となった和宮親子内親王(のちの静寛院宮)である。
 ともに将軍家の内部から維新の進行に関与されたご両人の事績については、オモテの歴史ではなく、ウラ話として語られるのが常であるが、史家の誤りはこのような所から始まるのである。
 理由は、そもそも安政の大獄がなかったら幕末の混乱は遅れ、井伊直弼が大老にならなかったら大獄は起こり得ず、篤姫が家定夫人にならなかったら井伊直弼は大老に就けなかったからであるが、これを偶然の連鎖と観るのが通常一般の史家である。
 そこで「こりゃ偶然じゃありませんで。何方かの計画でしょう?」と斬り込むと、「そりゃ陰謀史観だよ」と断じて問答は終了。まあ計画した方は偶然と観て貰いたいから本願成就であるが、これでは歴史の解明にはならないではないか。
 それはともかく、白頭狸が歴史相似象を追求するのは、歴史の進行が誰かによって計画的に進められることは否定できず、人間の行うことはだいたい同じような手順を踏むから、囲碁の定石、将棋の定跡みたいに法則化ができて当然だからである。
 数学者ルネ・トムが提唱した「カタストロフィー理論」は、生物の形態発生や言語の構造などのあらゆる現象のモデルとして、力学系を土台とした構造安定性とその不連続な分岐(カタストロフ)を用いることで普遍的な説明を行おうとする試みである。
 不連続な現象を説明する画期的な理論として日本に紹介されたのは昭和四十八年頃だと思う。暫くはこれに魅了された不肖(当時は黒頭狸)は、その後しばらく忘れていたが、やがて歴史こそ構造安定性とカタストロフで成り立つ現象との考えが胸中に芽生えた。
 つまり、構造主義を歴史に当てはめることができると考えた白頭狸であるが、生来浅学菲才にして薄運貧窮ときては米塩の資を追うだけに光陰を費やし、須臾にして最終コーナーを曲ってしまった今、相変らずの相似象分析をもって歴史を探究しておる。
 ようするに、現状と相似する過去の事象を見つけ出し、そこに相似象を当てはめて今後を予測するのであるが、天璋院に高市早苗を当てはめた以上、静観院宮に宛てるべきは誰か?
 それと思しき、というより白頭狸が期待すべき「救世の女傑」は誰あろう、参院議員小野田紀美こそその人ではないか?
 小野田議員の人となりは周知であろうからここは割愛して、代りに「周知でないこと」を述べる。
 それは静寛院宮徳川親子(一八四六~?)の真実である。孝明天皇の異母妹親子内親王(「親子」はチカ子)は弘化三(一八四六)年、父仁孝天皇の崩御から間もない閏五月十日に実母の典侍橋本經子の実家で生まれ、幼名を和宮と称した。
 嘉永四(一八五一)年七月に有栖川宮熾仁親王と婚約するが、安政六(一八五九)年、京都所司代酒井忠義から関白九条尚忠に、将軍家茂への降嫁について打診があった。
 結局、和宮は有栖川熾仁親王との婚約を破棄して将軍家茂に嫁ぐことになるが、この辺りの事情は虚実を取り交ぜ、巷間で小説として発表されているから割愛するが、一つ確かめておきたいことがある。
 和宮降嫁一件の真相は巷間流布する小説のごときものでなく、仁孝天皇の偽装崩御と同じく國體の幕末工程の重要な一環であった。
 新井白石の建言によって世襲親王家として立てられた閑院宮家は、東山天皇の第六皇子直仁親王を初代とするが、閑院宮二代の典仁親王は直仁親王の王子ではなく実はベルギー王家から入った。
 典仁親王の王子が光格天皇となって始まる光格王朝が光格⇒仁孝⇒孝明と三代にわたり続いたことが、明治天皇誕生の秘実に繋がる日本近現代史の隠された真髄であるが、詳細は既刊拙著に述べたのでここでは省く
 日本近代史は江戸時代の中頃に伏見宮家から紀州家に入った徳川吉宗が八代将軍職を継いだ時から始まるが、この人事の奥底に在ったのが「公武合体」理念であった。すなわち、皇室と徳川家が家系的に合体することを以て國體を維持発達さすことで合致していたのである。

 この非常時に迂遠な史話をと嗤う莫れ。現状の自民・民主の中に潜む真の保守派が合体するほかに救世の策なし、と観じる白頭狸は、その推進役として小野田議員に期待するのである。


 
 

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