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バブル景気とその崩壊 9/5


 前項で触れた重要工作の詳細は、このnoteにて問い合わせて下された方に対して、info@kleio.ne.jpから返信します。

〔48〕バブル景気とその崩壊
 さてバブル景気の終焉は平成三(一九九一)年二月とされるが、株価としては平成元(一九八九)年の大納会に日経ダウが三八九五七円を付けたのがピークで、バブル終焉のころには二五〇〇〇円内外にまで低落していた。つまり株価ピークのあと、一年余りバブルを担っていたのは地価であった。
 この間のエピソードは公私ともにたくさんあるが、最大のものは拙著『平成日本の幕末現象』の発表で、これを書き始めたのは平成元(一九八九)年の三月であった。直接の動機は同年一月七日すなわち昭和天皇崩御の朝に荊妻緑が他界したことである。
 この拙著で「戦後日本がアメリカの間接占領下にあること」を指摘したわたしは「アメリカの統治代理人である自民党の使命は終った。経済力と金融力がついた今こそ脱却の時期である」と主張したが、どうやら三十年ばかり早すぎたようで、三三年後の令和四(二〇二二)年に至り漸くその機が到来したのである。
 因みにこの拙著は古書市場でかなりの高額と聞いたが、まだ手許に若干数が残っているので、お望みの方は、本稿の終わりの「落合莞爾のプロフィール」で「限定本」からご注文ください。

 時はバブルの絶頂期であったが、内心「株価の天井は近い」と感じたわたしは、前年暮れに持株の一部を処分してかなりの金額を手にしていた。
 ところが首都圏における地価の暴騰は、たったいま始まったがごとく猛烈で、このあと関西に飛び火する。その前に和歌山に足場を設けていたわたしが毎週東京と和歌山を往復する中で必ず目にしたのは、紀伊半島の土地を捜すブローカーたちであった。
 かれらは首都圏の土地を売って得た短期売却益に課せられる懲罰的な重税を、買い替え特例で圧縮するために適格な土地を探していたのである。
 彼らの先行者であったわたしが銀座の土地を和歌山市内の土地に買い替えて賃貸用のビルを建てたのは昭和六十三年であった。平成元年の暮に和歌山で出版記念パーテイを開いたわたしは、翌年以後は和歌山にいて、株価と不動産市況を観察しているうちに、眼前の地価高騰の原因が実需でなく、節税のための買い替え需要であることを実感した。
 「買い替えが一巡したら地価の上昇は終るが、高値になった土地を有効利用するには収益利回りが低すぎると考えたわたしが、現在の土地相場が終われば、あとは反落しかないが。そのとき政府がどんな手を打つだろうか?」を考え始めたのである。
 わたしが、バブルの崩壊を覚ったのは平成三年の秋風が吹き始めた頃であった。行きつけの料理屋「輪一」の卓をそれまで飾っていた「予約席」の札が、ある日の夕方に突然消えたのを見たわたしは、予てよりバブル崩壊の徴候を見張っていたので、これがバブル崩壊のしるしと確信した。
 早速、経済企画庁官房秘書課長の塩谷隆英さんに電話して「バブルは終った」と告げた。経済企画庁部員時代にお世話になった塩谷さんは、昭和四十七(一九七二)年に発足した環境庁で第一回『環境白書』を編纂した時、わが所論を採用してくれたほどで肝胆相照らすところがあったから、わたしが確信したこの重大異変を真っ先に伝えたかったのである。
 すると塩谷くんは「たしかにタクシー業界とデパートの売上げが減収に転じたとの速報が入っているがーーー」と、暗に賛同する風であった。後日仄聞するところでは、塩谷くんは早速吉富勝調整局長を訪れて、「たった今、落合君からこのような情報が入った」と報告したそうだが、かれもバブルの崩壊が近いことを内心では確信していたからであろう。折から調整局長室に居合わせた人物が見聞きしたことを教えてくれたのだが、これを偶然と観ないのがわが中観流の因縁史観である。

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