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行政の目安だった御定相場の秘めた意味 8/30

〔41〕行政の目安だった御定相場の秘めた意味
 さてここまでは、日銀総裁黒田東彦の進めてきた「異次元の金融緩和」に対し,国民側が取るべき今後の対応を策定する前に必要な貨幣経済史の考察である。
 大坂夏の陣がもたらした元和偃武のあと日本が必要としたのは、戦国時代の残滓の一掃である。偃武とは戦争経済が平和経済に移行することであるから、平和社会では兵員が余剰になる。その兵員を削減するための必須要件として行われた戦国大名の改易により多くの侍が牢人となって農商に転じ、諸大名は徳川氏に臣従することとなり、世は幕藩体制に移行する。
 幕政を始めた家康が国是としたのは一神教植民地主義の侵入を防ぐための宗教鎖国で、貨幣経済を生産経済に転じるため年貢米納制と地産地消の重農主義を採り、鎖国経済の基盤とした。
 キリシタン大名の連合たる西軍との関ケ原の戦い(一六〇〇)年で勝利した東軍の総大将徳川家康は、慶長八(一六〇三)年に江戸幕府を開基するが、これに先立つ慶長六(一六〇一)年に早くも幣制の天下統一を図り慶長小判を発行する。
 武力統一を天下に明示するのが幕府の開基である。その前に幣制の統一を実行した徳川家康の見識に脱帽せざるを得ないが、家康の背後で強力な勢力が幣制統一を後押ししていたのである。
 強力な勢力とは天海大僧正と永世親王伏見殿である。伏見殿と天海および徳川家康の関係は、平成二十五(二〇一三)年に成甲書房から刊行した拙著『国際ウラ天皇と数の系シャーマン』に詳述したから、これを正しく理解したい方は是非参照されたい。
 応仁の乱後、一五〇年も続いた戦国の世を終わらせた元和元(一六一五)年の大坂夏の陣を別名「元和偃武」というが、これに六年先立つ慶長十四(一六〇九)年に早くも慶長金を発行し、金銀銅三貨の為替相場の目安として金一両=銀五十匁=永楽銭一貫文=鐚銭四貫文と定め、余程の事がなければ為替市場に権力介入しないことを原則とした江戸幕府はその後、銀の産出額の増加が金のそれを遥かに上回ったため、元禄十三(一七〇〇)年に金銀為替の目安を金一両=銀六〇匁に変更した。
 これは金に対する銀の切り下げであるが、金銀比価を国際標準に近付ける目的を秘めたものとみるのは僻目であろうか。
 慶長幣制における金平価は、戦国末期の緊縮的な社会の消費水準に応じたものであったから、泰平の世の到来で拡大する経済が必要とする信用を賄い切れなくなってくる。
 幕政初期は豊臣政権から継承した莫大な金塊の鋳潰しにより、金貨の供給を増やして乗り切ったが、やがて経済の規模拡大に貨幣の供給が追い付かなくなると深刻な貨幣不足が生じ、通貨不足が経済成長の足かせとなってきた。
 ここで生じる現象が「カネ詰り」である。経済が縮小過程に入るときに生じる「カネ余り」の反対で、経済が拡大基調で投資機会と投資意欲があるにもかかわらず、資金が回らないから生産を拡大できない状態が「カネ詰まり」である。
 この現象が意味するのは、「一定規模の経済を廻すには、その経済規模に比例する“信用財”の存在が必要」という事実である。
 つまり “信用財”とは、化学反応における触媒あるいは製造機械における潤滑油のようなもので、それ自体は原材料でないが、生産には必須な物資のことである。
 経済活動において触媒ないし潤滑油の機能を果たすことのできる特定の資源を信用財といい、貨幣として用いられた時に “本位財”となる。つまり、信用財的要素が揃う物資として貴金属を本位財にしたのが金本位制や金銀複本位制なのである
 ところが近来、信用財は必ずしも貴金属でなくてよく、中央銀行が独自に創造した「概念通貨」でも十分間に合うとの考えが出てきて、管理通貨制度が生まれた。
 政体通貨ないし暴力通貨ともいうべき概念通貨が国際的に初めて登場したのが、昭和四十六(一九七一)年末に成立したスミソニアン体制である。経済取引の決済の最終的手段を、貴金属の所有権移動でなく、暴力通貨(軍票)米ドルの受け渡しとする「米ドル本位制」のスミソニアン体制は諸国の信認を受けられず忽ち崩壊して変動通貨制に移行し、今に至っている。


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