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金銀比価と御定相場 8/30

 〔39〕金銀比価と御定相場
 ここまでは金貨を中心に述べてきた。江戸時代の日本は金銀複本位制であったから銀貨政策についても語らねばならない
 銀貨については平成二十六(二〇一四)年発刊の拙著『京都裏天皇と薩長新政府の暗闘』(成甲書房刊)で述べようとしたが、紙数の関係と版元の意見もあり、述べ尽くさなかったので、ここで述べる。
 金・銀・コメの価格をバランスさせながら、金銀貨の品位を徐々に下げる「本位切下げ政策」を採ってきた江戸幕府の貨幣政策に隠れていた重大問題は金銀比価である。
 一六世紀の東アジアの金銀比価はシナ大陸で九、朝鮮半島で一〇、インドでは一一くらいで、総じて世界に比べて銀高であったから、大量の銀が新大陸からあるいは欧州を経て東アジアに流入した。
 金銀どちらも産するが銀の産出量がとくに多い日本での金銀比価は常に金高方向を目指し、天正年間は一〇であったものが、慶長年間には一一になった。
 慶長幣制では金一両を構成する純金分は一五・一九グラムで、ほかに二・五四グラムの銀を含む。一方慶長丁銀の五〇匁が含む銀分は、五〇×三・七五×〇・八=一五〇グラムで、残りの成分の銅などは無視し、金の価格をX、銀の価格をYとすると、15.19X+2.54Y=150Yが金銀貨の等価方程式である。これを解くとX=9.71Yが得られ慶長幣制の金銀比価が九・七だったことになる。
 鎖国後も金銀の輸出入を制限しなかった日本は、銀の輸出を続ける一方で慶長金の鋳造のために清国から金錠(馬蹄金)を輸入したと伝わるほど金不足であった。
 元禄十三(一七〇〇)年に金銀為替の御定相場を金一両=銀五〇匁から六〇匁に変更したのは、右の金銀比九・七では銀が割高すぎると考えたからで、この御定相場の改定で金銀比価は一四・六になった。

 諸説ある中で、以下のことを論じた経済史家がいたかどうか門外のわたしには判らないが、私見は荻原の御定相場改定は国内の金銀比価の是正のみならず、国際標準への接近を図ったものと思う。
 ちなみに英国造幣局長だったアイザック・ニュートンが、一七一七(享保二)年に定めた金銀比価一五・二一がいわゆる「ニュートン比価」として知られており、その後国際的な金銀比価は一五・八で推移したらしい。元禄改鋳に際し荻原重豪が御定相場を一四・六としたのは、国際的な金銀比価に近付けることを図ったのではなかったか。
 正徳・享保金でデフレに陥っていた日本社会をリフレ化したのは元文元(一七三六)年に発行された元文金銀であるが、元文金は享保金の量目・品位をどれだけ切り下げたか?

 享保金17・78(0・861+0・139÷15・8)=15・46
 元文金13(0・653+0・347÷15・8)=8・77 
 (上式中の15・8は金銀比価の当時の世界標準である)

 右に見るように量目と金純度の切り下げによって享保金の56・7%に減らしたのが元文金である。その発行は金一両の品位を43・3%切り下げた新金一両の発行を意味するが、経済取引が貨幣の表示する名目的数額で行われると、債権債務はともに六割に縮減する。
 つまり吉宗は元文金の発行により通貨「両」の切り下げ(日本で言うデノミ)を敢行したのであり、元文銀に対しても同様な処置がとられた。
 享保銀は銀純度が八〇%で他は銅などでできているが、丁銀は秤量貨幣で量目は定まっていない。元文銀の銀純度は四六%で古銀の銀量を五七・五%減らしたものであった。この銀量切り下げ率が元文金における享保小判の品位切り下げ率五六・七%とほとんど同率なのは、本位切り下げ=デノミとの意識が明確だったからである。


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