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〔31〕稽古14回 敬田院法學日洋居士の命運

有料稽古14 敬田院法學日洋居士の命運を探る 3/1

 白頭狸の一歳下の弟文学博士井口洋は、さる二月二十六日に突然死いたしました。妻との会話中にくずおれた洋は救急病院で死亡が確認されたのです。
 紀州那賀郡粉河荘に発する井口家の母方は同郡吉仲荘調月村の郷士で橘姓の井口左近で、その娘が産んだ父と同名の次男井口左近から始まるのが粉河井口氏です。
 元弘元(1331)年に吉野から紀州落ちしてきた大塔宮護良親王が同二年の元旦、同国名草郡大野荘の大春日大明神の社頭に招集した大野十番頭の一人の同郡井田村の郷士井口氏が壱岐守の受領名を賜り、弟の那賀郡調月村井口左近に護良親王の保護を依頼したのです。
 調月村の井口左近館に逗留する大塔宮護良親王に近侍した左近の娘(名は未詳)が建武元(1334)年四月二十二日に授かった長男が、北朝光厳天皇の皇子とされて崇光天皇になります。
 こうして行われた南北皇統の強制統合が今日まで極秘とされたため、この事を知る者は皇室と伏見宮の歴代を除いてほとんどおらず、白頭狸が高松宮妃殿下から伝えられたのは十年前のことです。
 崇光天皇の次男が母の実家の調月村郷士井口左近の名を継ぎ、皇別井口氏の初代となります。その直系子孫が白頭狸こと井口莞爾(筆名落合莞爾)と井口洋の兄弟なのです。
 さて白頭狸は、かつて東光院智應大僧正から中論宗を学んだ際に戒名を頂き、その後得度した時に南光房爾應の法号を頂きましたが、弟の洋も生前戒名として「敬田院法學日洋居士」を頂きました。
 敬田院(きょうでんいん)は四天王寺の四箇院の一つで学問の機関ですから奈良女子大副学長に相応しいとのことでしたので、「文学博士なのに法學とは是如何に?」と質したら「この法は法律のことやない、仏法の法じゃ」とのことでした。

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