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新著の予告編その2 9/19

〔51の3〕大杉の渡欧資金を出した有島武郎
 人類の歴史で初めて出現した共産主義国家ソビエト・ロシアに対する反感が日本でみなぎるのは当然のことです。何よりも、その王制否定論は古来一皇万民を守り育ててきた皇国日本の民が最も嫌うものですから、ソ連との国交樹立などを言い出せば、容共主義と見做されて軍部や外郭による殺害さえ予測されました。
 その中で日ソの国交樹立を図ったのが後藤新平です。後藤が日本史上で稀な世界的政治家であることに異を唱える人は、今は居るまいと思いますが、当時の後藤は予期される危険を避けるため、大杉に支給する渡欧資金に工夫を凝らしたようです。
 大杉の対露工作資金の流れを水道に例えれば、水源はやはり國體資金ですが、その金は杉山茂丸の命を受けた代準介が稼いだもので元栓は玄洋社か黒龍会で後藤が給水管となり、後藤のダミーが水栓として顔を出すのです。
 給水管の後藤新平を隠すために水栓(資金提供者)の役をはたした有島武郎(1878~?)は薩摩藩郷士から大蔵省に入り関税局長・横浜税長を歴任した有島武(1842~1916)の長男で白樺派の作家です。父の有島武は大蔵大臣渡辺国武(1846~1919)と対立したことで明治二十六年に辞官し、以後は実業界で京都鉄道・日本鉄道・山陽鉄道で重役に就き、大正五年に薨去しました。武の子は揃って芸術的才能に恵まれ、長男有島武郎(1878~?)はの白樺派のベストセラー作家として今も名を遺しますが、次男が画家の有島生馬(1882~1974)、三男が文化勲章作家の里見弴(1888~1983)といずれも肩を並べています。生馬に育てられた武郎の遺児が後の俳優森雅之(1911~1973)です。
 学習院から札幌農学校へ進んで新渡戸稲造の指導を受けた有島武郎は、明治三十六(1903)年に渡米してアイビーリーグの一つハバフォード大学の大学院から、ハーバード大学院に移って社会主義を学び、帰朝するのが明治四十年です。
 帰朝後東北帝大農科大学(現・北大)の英語講師となった武郎が、翌四十二年に学内に結成した美術団体「黒百合会」は今も続き、北海道文化の向上に大いに寄与しています。同年、東北帝大農科大学予科の教授となった有島武郎は、弟の画家有島生馬から紹介された志賀直哉や武者路実篤らと共に明治四十三年に雑誌「白樺」を創刊しました。
 因みに、ウィキペデイアには「アナキストの巨星大杉栄が海外に遠征した際に、黒百合会を主宰していた有島武郎は同志としてカンパをしたが、実はそれまでに大杉とは数回しか会ったことがなかった」とありますが、出所を明らかにしていないこの記載には興味を惹かれます。
 大杉栄の海外遠征は大正十一年末の渡仏を別にすれば、大正九年十月の上海への密航しかないが、これはコミンテルンの「極東社会主義者会議」に出席するためで、ごくごく秘密だったのです。
 鎌田慧『大杉栄自由への疾走』は、「アナキストの大杉が、ボリシェヴィキの国際会議に日本代表としてはじめて参加したのは、歴史の皮肉である」と述べますが、実のところ大杉は後藤新平が派遣した潜入者ですから、心中にはアナもボルもなかったのです。
 ともかくこの時の大杉は、特高の監視を上手にまいたため、全く雲隠れの状態で、警察も監視不行き届の失態が世間の噂になることを恐れて曖昧に済ませたとのことです。こんな状況では出立前の資金カンパなど大っぴらにできた筈はなく有島がカンパした可能性は十分にあります。といっても有島個人のものでなく、後藤から出ていた筈です。
 有島が大杉に資金をカンパしたとしたら後藤新平を被ったものと考えられるのは、新渡戸に学んだ有島が後藤を核とする人材ネットワークの一環としてこれまでも後藤の配下であったからです。
 潜入者は黒幕の委託を受けていないことを証明するために活動資金のあらかたをときどき潜入先に説明する必要があります。大正五年以来、後藤新平から活動資金が大杉に出ていたことはたしかですが、大杉には資金源について潜入先の同志の眼を晦ますた、資金源のアリバイ作りをする必要があり、そのアリバイとして、格好の存在だった有島は、牧場を放棄し財産を処分した大金を大杉にカンパして、波多野秋子との偽装心中を実行します。



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