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大室寅助が選ばれた理由6

〔6〕大室寅助が選ばれた理由 令和四年六月一日/改訂六月十一日
  承前
 慶応二年十二月二十五日、光格王朝の三代目孝明天皇は偽装崩御して堀川御所にお隠れになられた。
 堀川御所とは水戸の徳川斉昭が堀川通六条の日蓮宗本圀寺境内に安政年間に秘かに設けた御殿で、國體天皇の御座所とするために造営したことは、明治維新を遡ること十年の時点ですでに國體天皇と政体天皇の分離が具体化していたことの物証である。
 堀川政略」の骨子は、堀川御所で國體明治天皇となった孝明天皇・睦仁皇太子の男系子孫が「京都皇統」となり、長州から招いて政体明治天皇に任じた大室寅助を東京皇室としたことにある。
 周防国熊毛郡田布施町麻郷の慈化山西円寺は、ホームページに浄土真宗本願寺派(本山西本願寺)で寛文年間(一六六一~一六七三)の開基とある。旧は曹洞宗であったが、住職が本願寺十三代良如上人(一六一三~一六六二)に帰依して改宗したといい、現在の本堂は文化十一(一八一四)年の建立である。
 この辺りは拙著『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』(二〇一四年初刊)に述べたので詳細はそれに譲るが、ともかく大室寅助の父地家作蔵がこの地に出現したのが偶然でないことは明かである。
 寅助の弟地家朝平の玄孫地家康雅さんの言では、大室寅助の母は興正寺が西円寺に派遣してきた住職昭顥坊の娘でスヘ(基子)といい、皇室に所縁があるというが、南朝寺院として知られる興正寺は住職も大谷一族でない。
 地家康雅さんの言では、スヘの姓は谷口で天保二(一八三一)年五月一日生まれとあり昭顥坊の姓の確認はできないが、「大室スヘの姉は長崎に嫁ぎ、谷口姓のナカで伊藤巳代治を産んだので、伊東と大室寅之祐は母方の{いとこ}の関係にあった」というので、ナカとスヘの実家が谷口姓であることはたしかであろう。
 たしかに『旧華族家系大系』にも、伯爵伊藤巳代治(1857~1934)は長崎の町年寄伊東善平と谷口戈吉郎の娘ナカ(1822~1904)の間に生まれたとある。
 ここでわたしは日中混血の作家譚璐美の小説『父の国から来た密使』の一節を思い出した。「(作中の人物)伊東治政の父親伊東巳代治伯爵は天皇家の血筋を引き・・・」というものである。
 真実は、いかに厳重に密閉されようとも、やがてはこのような形で漏出するが、問題は漏出の際に他の気体と混合して、真偽が曖昧になってしまうことで、これ地家康雅氏が発する情報が、貴重な歴史証言と高祖父以来の恨みの感情の混合体をなすのを惜しむ所以である(続く)。


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