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〔119〕ポンピドー牧師と上原勇作と後藤新平 付けたりポールラッシュ 9/22加筆完了

 〔118〕でポンピドー牧師について言及しました。
 同牧師に関する記事として落合が知るのは「周蔵手記」の「本紀」と「別紙記載」だけで、京都皇統代(高松宮喜久子妃殿下)から授かった國體秘事伝授にも出てこないポンピドー牧師の名が、思いもかけぬところに出てきました。
 それが〔118〕で紹介した仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』(平成五年初刊)ですが、王希天だけに焦点を当てた仁木は、ポンピドー牧師の探求を怠ったため、「王希天が垣内中尉に斬殺された」というとんでもない結論に達してしまいました。
 方角違いにせよ、折角の努力がこんな惨状に帰したのは惜しまれますが、左翼妄想が根底にある以上このような誤謬に陥ることは避けられません。
 龍樹菩薩の中観思想を一部でも覚ることができた落合は、左右いずれにも偏らず歴史の真相に迫れることにマイトレイヤの慈悲を感じております。

 ところが仁木と同様の邪しまな存念から発したため同様な惨状に陥ったのが田原洋著『関東大震災と中国人(王希天事件を追跡する)』です。
 初刊は平成二十六(2014)年で、この頃にはすでに落合の王希天論が、月刊誌『ニューリーダ―』の連載や幾つかの拙著によって世に出ていたのですが、反日妄想に生きる田原の耳に届かなかったのでしょう。

 ところがここに奇譚あり。当時、拙著を読んだ作家古野直也さんから連絡がありました。「落合さんのいる和歌山には夏休みに行きましたよ。父の部下の家に一月も泊まって毎日加太へ海水浴に行きました」というのです。
 古野さんと落合の間に多少の交流がありましたが、大室寅助を巡る見解の相違から、いつしか絶えてしまいました。
   大正十三(1924)年生まれで、今も生存しておられるなら百歳の古野直也さんは、陸士57期を出て神鷲124隊長に任じた戦闘機乗りですが、拙著が松下豊子や貴志彌次郎中将について述べたので「和歌山で過した夏休みを思い出した」との事でした。

 古野さんの父の古野縫之助は、陸士が東条英機と同じ十四期で、昭和九(1934)年に大阪兵器支廠長となり、同十一年陸軍少将に進級と同時に待命、予備役に編入されました。
 その部下だった垣内八洲夫(士候31期)の家が加太に近い磯ノ浦にあり、古野直也さんはそこにひと月も泊めて貰い、毎日加太に泳ぎに行った、とのことです。

 大正十三(1924)年生まれの古野さんは昭和十七(1942)年に陸士57期に入りますから、夏休みが取れたのは昭和十六年以前で、おそらくその頃のことでしょう。
 昭和十八年八月二日に対馬要塞の重砲兵連隊長に就く垣内八洲夫中佐は、その前は加太の深山重砲兵連隊関連の任務にあったと思われますが、何度も改編されたあげくに重砲兵第五連隊となるこの連隊の、当時の連隊長に垣内中佐の名はありません。
 それに、昭和十一年に予備役編入になる古野縫之助少将に、垣内八洲夫が

部下として仕えた時期も未詳ですから、ここは一応これ以上の探求を止めておきます。
 ともかく大震災当時、第三旅団野戦重砲兵第一連隊にいた垣内八洲夫が、陸大を出て砲兵大尉に進級し、フランス留学を控えて参謀本部にいた遠藤三郎大尉が、郷土の先輩甘粕大尉から秘かに(個人的に)”頼まれ“て実行したのが王希天の偽装斬撃なのです。
 遠藤大尉が甘粕大尉から要請されたことは明らかですが、王希天本人と甘粕が共謀して失踪を図ったのです。憲兵隊長と左翼活動家が共謀することなど夢にも考えない売文歴史家には理解できないでしょうが、一皮むけばこの二人は「大東社員」として「一つ穴のムジナ」なのです。
 偽装斬撃の目的が王希天の単なる負傷なのか、偽装死なのか、それとも失踪による行方不明なのか、関知しなかった垣内は、その後甘粕が始末に当たっことをよく知らないので、後年突撃取材に来たジャーナリスト田原洋の追及にはかばかしい応答ができなかったのです。

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